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五稜郭の歴史(築造から大政奉還)

公開日 2023年06月16日

特別史跡五稜郭跡|五稜郭の歴史(築造から大政奉還) | 五稜郭の歴史(箱館戦争から現在)出土品からみる奉行所の暮らし箱館奉行所 | 五稜郭内の建物と遺構

 

奉行所の古写真

五稜郭内の箱館奉行所庁舎(函館市中央図書館蔵)

 

箱館開港と箱館奉行の設置

 嘉永6年(1853)ペリー提督率いるアメリカ艦隊(黒船)が来航し,翌年安政元年(1854)徳川幕府はアメリカと日米和親条約を結び,下田と箱館(この名前は明治2年(1869)から函館という文字になります。)の2つの港の開港を決定しました。
 開港に伴い,幕府は直接蝦夷地(明治2年に北海道と変わるまでこの呼び名となっていました。)を治めて開拓し,また外国との応対をするために箱館奉行を置いて,函館山の麓(現在の元町公園あたり)に奉行所(役所)を開くこととなりました。当初の奉行は,竹内下野守保徳(たけうちしもつけのかみやすのり),堀織部正利熙(ほりおりべのしょうとしひろ)の2名となりました。箱館奉行には幕末までの間,合計13名が着任しています。(下記PDFをご覧ください)
 歴代の箱館奉行一覧表(PDF形式:128KB)

 

竹内下野守保徳の写真

竹内下野守保徳(函館市中央図書館蔵)

 

 箱館奉行の主な任務には,(イ)「箱館」(箱館を中心とした5里から6里四方の幕領地)の統治,(ロ)箱館開港に伴う対外関係の処理,(ハ)箱館を中心とした幕領地の海岸防備,の3点がありました。
 箱館奉行の統治する領地は,当初前述のとおりでしたが,次第に拡大し,一時は蝦夷地全域を統治することとなりました。しかし,安政6年(1859)に幕府が奥羽6藩へ蝦夷地を分与し警備と開拓にあたらせたことにより,奉行の「御預所」は松前藩領以外の箱館を中心とした和人地と東蝦夷地14ヶ所,西蝦夷地18ヶ所,北蝦夷地の計33ヶ所へ縮小しました。
 箱館奉行は経済政策や農業政策,製鉄業や捕鯨業など新しい産業・技術の開発にもさまざまな努力を行いました。
 蝦夷地の産業経済のしくみのなかで基幹をなす場所請負制(松前藩士が受けていた知行地での交易権を商人へ代行させた制度),沖之口制(船積荷に対する課税制度)については,問題性を認識しつつも旧制を維持・継続していくことになっていきましたが,運用面で変更を行い,東蝦夷地出産物の箱館集荷の徹底,税率の引き下げ,それまで禁止されていた鯡(にしん)大網の公式な許可などがとられました。
 農業政策としては,北方警備と開拓のために「屯田農兵」の制度として「在住」制,また直営的な開墾場として保護移民の導入の形の開発策である「御手作場」が行われましたが,どちらもなかなかうまくはいかなかったようです。
 日米和親条約では外国人との交易は行わず,食料・水などの欠乏品を補給するための取引だけが認められていましたが,安政6年になるとさまざまな規制を加えながらも外国人交易を許可するという触書が出されました。箱館の貿易額は,昆布を中心とする海産物の輸出額が大部分を占め,輸入の規模は小さいものでした。全国的な貿易の中での箱館の比重は小さいものでしたが,昆布を中心とした海産物の輸出では,箱館貿易の意味はやや大きかったのです。
 安政3年(1856)に箱館奉行は越冬対策として入港した英国船にならい,箱館の職人にクワヒルというものを造り,奥地へ配分しています。クワヒルとはいまのロストル付きの石炭ストーブです。またコーヒーを取り寄せ水腫病(すいしゅびょう)対策の薬として兵士に配っており,これが北海道のコーヒー文化の発祥と言われています。


 開港場となった箱館では,外国人との間にさまざまな摩擦もありました。
 慶応元年(1865),箱館駐在の英国領事が人類学的資料とするためアイヌ人骨の盗掘を領事館員に命じるという事件がおきました。事件が発覚すると,箱館奉行 小出大和守秀実(こいでやまとのかみひでざね)は英国領事へ猛抗議,箱館駐在の仏蘭米の三国領事立会の下で領事裁判を要求すると同時に人骨の返還を命じました。小出奉行と交代で箱館奉行となった杉浦兵庫頭誠(すぎうらひょうごのかみまこと)も同様に交渉を続け,その結果,英国側は事件を認め,領事の交代,慰謝料の支払いなどを行いました。盗掘されたアイヌ人骨も慶応3年(1867)に返還されました。
 この事件は,我が国の要求が強硬に主張され貫徹した例として非常に稀で,また治外法権下で領事裁判が適用された事例としても珍しいものでした。
(「アイヌ人骨盗掘事件」についてはデジタル八雲町史 第3編 行政(外部リンク)より)

 
 前述した杉浦兵庫頭誠は,大政奉還の時に箱館に赴任していた最後の箱館奉行でした。徳川幕府が倒れ明治政府となったあとも箱館にとどまり,奉行所のあった五稜郭を新政府の箱館府知事清水谷公考へ引き渡しています。また,明治2年に開拓使が設置されると,その経験を買われ,再び函館の開拓使出張所へ主任官として着任し,函館のために尽力しました。
 以上,詳細については下記の函館市史(函館市地域資料アーカイブ)の記事をご覧ください。


箱館奉行の任務について


各種施策について

 

五稜郭の築造

 箱館奉行が設置された当初,奉行所は函館山の麓にありました。しかし,箱館奉行である堀織部正利熙は,箱館の地が海から攻撃を受けるとひとたまりもないこと,外国人遊歩地として5里四方を許可したので函館山へ登ると市中の役宅などが一望でき,また港から攻撃を受ける際にはこのような役宅などが一番に標的となることから,箱館奉行所および支配向役宅を亀田の地へ新築・移転することを上申しました。また,箱館周辺の防備策として,矢不来・弁天岬など7ヶ所の台場の新築・模様替えを上申しています。
 これが五稜郭の築造と弁天岬台場の築造へとつながっていきます。

 

武田斐三郎の写真

武田斐三郎(函館市中央図書館蔵)

 

弁天岬台場(函館市中央図書館蔵)


 そして,この台場と役所の設計は,奉行の支配下にいた諸術調所(しょじゅつしらべしょ)教授役で蘭学者の武田斐三郎成章(たけだあやさぶろうなりあき)が行うことになりました。その後,安政2年(1855)に箱館に来たフランス軍艦コンスタンティーン号の軍人から,中世のヨーロッパの西洋式の台場と土塁(フランスのパリ郊外のものとみられます)について教えられたことをもとに,新らしい台場と役所(土塁)の設計をすることになりました。
 安政3年(1856),弁天岬台場(べんてんみさきだいば)の工事が始まり,翌年の安政4年春から「亀田御役所土塁」(かめだおんやくしょどるい。この名が五稜郭を造る時の最初のものです。)の工事が始められました。五稜郭を造る時の最初の考え方は,半月堡(馬出塁)を5か所に造る形であったようですが,結局のところお金が不足したために4か所の半月堡を削って,今のような南西側正面にある半月堡1か所という形となりました。堀を掘ることと土を盛り上げて土塁を造る工事は,越後の松川弁之助(まつかわべんのすけ)が中心となり,安政5年(1858)には, 五稜郭を一周する堀と土塁がほぼ完成しました。

 

松川弁之助の写真

松川弁之助(函館市中央図書館蔵)

 

備前の喜三郎の写真

備前の喜三郎(函館市中央図書館蔵)


 しかし,蝦夷地の冬は寒く,すぐに堀などの壁が凍りついて崩れ落ちてしまいました。そこで,崩れた堀の壁や土塁を抑えるため,翌年の安政6年(1859)から石垣を積む工事が始まりました。この石垣工事は,備前の石工(いしく)喜三郎(きさぶろう)が中心となり,箱館山の立待岬や神山・赤川などの山から切り出した石(安山岩,あんざんがん)を運んで行われました。
 また,建物の工事は江戸の中川伝蔵(なかがわでんぞう)が請負いますが,都合で父の伊兵衛(いへえ)が代理人となりました。そして,万延(まんえん)元年(1860)頃から,五稜郭の北側に奉行所に勤める役人たちの住宅建設の工事が始まりました。この時には,五稜郭北側を流れる亀田川から水を引いて,堀の中に蓄えたり,飲水として使うため,木製の管による水道管を引く工事も行われました。(この水道管は,蝦夷地で造られたものでは最初の上水道となります。)
 文久(ぶんきゅう)元年(1861)からは,五稜郭内に役所や長屋や蔵など付属の建物の工事が始まることになりました。このようにして約7年をかけて,元治(げんじ)元年(1864)には弁天岬台場と五稜郭がともに完成することになりました。そしてこの年の6月15日に,箱館山の麓にあった奉行所から,第9代奉行の小出大和守秀実(こいでやまとのかみひでざね)が五稜郭の新役所へ引っ越しをしました。こうして,五稜郭の中で,蝦夷地の開拓や外国船の取り締まりをはじめとする箱館奉行所としての仕事が始まりました。なお,箱館奉行所の正式名は「箱館御役所」であります。
 しかしながら,この3年後の慶応(けいおう)3年(1867)に大政奉還(たいせいほうかん)となり,徳川幕府が終わりを告げることになりました。そして,翌年の慶応4年(1868)には最後の奉行杉浦兵庫頭誠(すぎうらひょうごのかみまこと)から,明治新政府の総督清水谷公考(しみずだにきんなる)へ事務引き継ぎが行われ,徳川幕府の奉行所は,箱館裁判所・箱館府へと移り変わることとなりました。

 以上,詳細については下記の函館市史(函館市地域資料アーカイブ)の記事をご覧ください。


五稜郭の築造について

  • 通説編第2巻第4編「箱館から近代都市函館へ」


箱館裁判所・箱館府の設置について

 


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