函館の大火史(説明)

2018年3月15日

函館の大火史(説明)

函館の大火史

1  安永 8年10月 8日 「地金火事」

 午後12時,弁天町古地金買,治郎助宅より出火し105戸を消失した。これを俗に「地金火事」という

2  文化  3年10月 5日 「青山火事」

午前1時頃,弁天町の河岸市店,青山方より出火,折からの北西の強風に火勢は激しさを増し箱館奉行羽太正養がいち早く消防の指揮をとり,南部,津軽両藩の手勢を繰り出して消防に尽力した。
  しかし,風火は激しく火は四方に燃え拡がり,西は弁天町表通り両側,内澗町浜田屋兵四郎(現はこだてホテル付近)まで燃え,山の上町(現 弥生町付近)半分通り,実行寺,称名寺,浄玄寺類焼,御役 所坂下惣門並びに門番所,高札所,交代屋敷,官庫,板倉等を焼き払い,八幡町,会所町(現元町付近)を焼き,合計350戸に及んだ。 当時の箱館全戸数の半ばに近い被害であった。
 しかも,問屋,小宿等のある弁天,大町の経済の中心部と,花街のある山の上町とを焼き払ったのであるから,その被害は甚大であった。この大火により,箱館奉行 羽太正養は,当時箱館で井戸堀を職業としていた「井戸屋吉兵衛」を,大火の翌々日7日に奉行所に呼出し,外14名を消防常備とした。 これを「日月消防組」と称し,箱館奉行の監督する公設消防「函館消防」のはじまりとなった。

文化3年から明治2年までの50年間は火災記録はありません。

文化3年「青山火事」から明治2年「脱走火事」まで50余年間は大火災の記録はないが,当時の在住者の日記等を参考にすれば,天保15年1月21日450戸 ,慶応2年9月12日には,内澗町より出火 して地蔵町上通り,大工町通り一円と谷地半分余を焼失した大火があった模様である。 

 明治に入って

 3 明治 2年 5月11日  「脱走火事」

 陽暦6月21日)この日は箱館戦争の大激戦のあった日で,徳川勢の脱走徒が午前11時頃弁天町台場見晴所付近の材木置場に放火した。当時風が相当強く吹いていたため火勢は盛んとなって拡大し,大黒町,神明町,鍜冶町,鰪澗町,仲町,山の上町,新地町の各町に延焼し,872戸を焼失する大火となった。
 これを俗に「脱走火事」という。  

 4 明治 4年 9月12日  「切見世火事」 

(陽暦10月27日)午前1時頃,山の上町切見世長屋(遊女屋)から出火して1,123戸を焼失した。この大火を俗に「切見世火事」といい,その火災原因は遊野郎が切見世において故意か誤ってか羽目板の節穴に煙草の吸殻を落としたものと伝えられている。このため,山の上遊郭が蓬莱町に移転することになり,30,000円の移転補助費が開拓使から下附された。 

 5 明治 6年 3月22日  「家根屋火災」

(陽暦4月18日)午前零時,豊川町1丁目から出火して1,314戸を焼失した。火元は屋根屋新四郎であったのに,「屋根屋火事」と称した。焼死者5名あり,焼死者には官祭祀料金15円が下賜された。 

 6 明治 8年 4月18日

夜半,蓬莱町(現 宝来町)から出火して224棟,434戸を焼失した。この火災には破壊消防により破壊された19棟の家屋に対し消口潰家弁償法が行われた。これは町会所が開拓史の許可を得て実施した方法で, 即ち破壊消防によって災害を免れたと思われる風下縦3丁,横1丁以内の居住者に犠牲となった家屋の半額を弁償したものである。

 7 明治11年11月16日

 午前2時15分頃,鰪澗町(今の入舟町)1番地から出火して鰪澗町,山の上町の4丁目,5丁目の片側,鍜冶町,鰭横町,神明町,仲町,弁天町,西浜町,幸町,大町の3丁目,4丁目,仲浜町,富岡町の13箇町を焼き,焼失戸数954戸に達した。

 8 明治12年12月 6日

午後8時半頃,堀江町(現 末広町)から出火して,堀江町,天神町,地蔵町,船見町,船場町、 駒止町,内澗町,台町,東浜町,山背泊町,仲浜町,元町,大町,会所町,富岡町,上大工町,松蔭町,下大工町,愛宕町,茶屋町,山の上町,仲新町,本新町,上新町,下新町,鍛治町,芝居町、花谷町,梅ヶ枝町,常盤町,坂町,片町,神明横町の各町33箇所,2,326戸焼失した。 うち,官庁,学校,寺社,会社当31を含む大被害を被った。
 この火災の原因は放火(推定)で,折からの強風により火の粉は遠近に飛散して各所に飛火火災が発生し,消火不可能な状態となり未曾有の大火となった。この大火は,り災戸数が多いのみならず市内の重要部分を焼き払ったので,函館は一時ほとんど消滅した如く誠に惨状極まるものだった。また,両陛下より3,000円の御下賜金を賜り,また有栖川,北白川両宮家より500円を下賜され,その他集る義金は12,100余円に達した。

 9 明治18年 5月13日

 午前4時頃,恵比寿町(現 末広町)9番地より出火し,東の風により恵比寿町と末広町132戸 を焼失した。

10 明治20年 5月 2日

午後1時40分頃,西川町(現 豊川町)馬車会社物置より出火して,西川町383戸,地蔵町99 戸,計482戸を焼失した。 

11 明治28年11月 3日 

午前3時15分頃,鶴岡町(現 大手町)29番地より出火し,228戸を焼失した。  

12 明治28年11月28日

午前2時15分頃,西川町8番地より出火し,117戸を焼失した。 

13 明治29年 8月26日  「テコ婆火事」

零時30分頃,弁天町から出火し,折からの風速7~8m/sの東風に火は急速に燃え広がり,大黒町,鍛治町,旅籠町,天神町,駒止町,台町,鰪澗町,山背泊町,の各町に延焼し,2,280戸を焼失した。俗に大火は「テコ婆火事」といわれ,両陛下より御救済金2,200円を賜わった。 

14 明治32年 9月15日

午前9時40分頃,豊川町より出火して,汐止町,地蔵町,西川町,東川町の各町に延焼し午後1時鎮火した。この火災よる焼失戸数は2,294戸にのぼった。このため,両陛下より2,800円の御下賜金を賜わった 

15 明治33年11月 3日

東川町157番地より出火し,142戸を焼失した。

16 明治34年 4月12日

若松町7番地より出火し,199戸を焼失した。 

17 明治35年 5月 4日

 東川町217番地より出火し,108戸焼失した。

18 明治35年 6月10日

鶴岡町36番地より出火し,396戸を焼失した。 

19 明治40年 8月25日

午後10時20分頃,東川町217番地石鹸製造所より出火(洋燈転落の説あり),非常に強い東風と飛火により各所に延焼したため,消防活動が思うようにならず,火勢は拡大して,会所町,寿町,恵比寿町,大町,大黒町,鰪澗町,鍛治町,富岡町,旅籠町,天神町,駒止町,末広町,東浜町,船場町の14町全部を焼失,元町,曙町,汐見町,青柳町,春日町,蓬莱町,相生町,弁天町,船見町,台町,山背泊町,小舟町,豊川町,汐止町,地蔵町,西川町,宝町,東川町,仲浜町,仲町の20町の一部を焼失して翌26日午前9時25分ようやく鎮火した。 
被害は,り災面積400,000坪,焼失戸数12,390戸,死者8名,負傷者1,000名に達した。類焼した主たる建物には,函館庁舎,英国領事館,露国領事館,連隊区司令部,海事局,函館郵便局,函館電話局,商船学校,商業学校,高等女学校,函館病院その他私立病院8,区立小学校5, 私立小学校6, 会社38,銀行8,神社3,寺院6,教会5,新聞社5,劇場4等でその他商店,旅館,倉庫等主なる建築物がり災した。損害は31,148,000余円にのぼり, 多数の市民が衣食住の途を失ったので,14ヶ所に炊事場が設置された。9月2日にこの炊事場が閉鎖するまで救護をうけたものは戸数8,598,人口40,024名にのぼり,また避難所は20ヶ所で9月5日に閉鎖するまで32,428名の人が収容された。この大火に対しては,両陛下から,り災者救済のため13,000円の御下賜金を賜わった。また,北条侍従が現地の状況を視察した。その他,各地よりの義援金は70,098円にのぼり,米,味噌,衣類等の寄贈も多数にのぼった。  

20 明治44年 3月23日

午前2時20分頃,上水道停水中に海岸町26番地から出火し,140戸を焼失, 同3時50分鎮火した。損害額は30,000円で,原因は洋燈の転落からである。

21 明治45年 4月12日

午後2時20分頃,上水道停止中に音羽町(現 若松町)66番地から出火し,西4~15m/sの強風により火勢は拡大し320棟733戸を焼失して同4時10分鎮火した。損害額は225,840円である。

 大正に入って

22 大正 2年 5月 4日

午後1時50分頃,上水道停水中に若松町4番地から発火し西南西12~13m/sの強風により572棟 1,532戸を焼失,同5時鎮火した。損害額は634,707円である。  

23 大正 2年 5月25日 

午後11時10分頃,上水道停水中に東雲町390番地より発火し東12~15m/sの強風により94棟277戸を焼失,翌午前1時10分鎮火した。損害額は40,226円である。

24 大正 3年 4月 8日

午後11時頃,上水道停水中に蓬莱町(現 宝来町)40番地より出火し,東13~15m/sの強風により849戸を焼失,午前2時45分鎮火した。損害額は289,021円で,火災原因は炉火である。  

25 大正 3年12月 1日

午前零時15分,上水道停水中に鰪澗町(現 入舟町)2番地より出火し,北西風12~15m/sの強風により,420棟673戸を焼失した。損害額は281,567円で,火災原因はこたつからである。

26 大正 5年 8月 2日

午後3時50分,旭町240番地白玉製造所の乾燥室から発火し,東4~5m/sの強風により942棟1763戸を焼失し午後6時鎮火した。損害額は700,000円である。

27 大正10年 4月14日

午前1時15分,上水道断水中に東川町198番地の菓子製造所から発火し,東8~11m/sの強風により火勢は拡大し1,309棟2,141戸を焼失し,午前8時鎮火した。この焼失区域は152,830坪で,主なる建物には,病院5,学校3,銀行4,劇場5があり損害額は17,798,549円に達し,り災人口10,996名を数え,市の繁華街を焼き尽くし,明治40年以降最大の大火となった。両陛下より御救済金5,000円を賜った。

昭和に入って

28 昭和 9年 3月21日 「函館大火」

焼失状況等については前ページの通り,なお,焼失した主たる建物は,官公庁13,学校18神社寺院16,病医院48,新聞社6,銀行11,百貨店2,劇場10等で,り災人口は102,001人当時の人口約210,000人),その損害額は建物36,537,415円,その他87,380,612円(各当時の金額)に達した,この悲惨な状況のため,両陛下から御救済70,000円を賜った。さらに各宮家からも御下賜金を賜った。また,諸外国より多数の見舞いがあり,全国から義援金および数々の救援品の寄贈は膨大な数に達した。 

29 昭和20年 7月14日

午前と午後の2回にわたり空襲があり,市街および港内に機銃掃射並びに爆弾投下により相当の被害を受けた。午後の空襲で駒止町に爆弾が投下され午後3時5分駒止町28番地木造家屋密集地帯に火災が発生した。西10m/sの突風により拡大した。発火点は風上に当たるので,全市に拡大する危険が多分にあったが,消防隊は空襲中であるにもかかわらず,午後6時に鎮火した。この火災で169棟384戸を焼失し,損害額は1,531,000円に達した。  

30 昭和29年 5月11日

午前1時5分,湯川温泉旅館街の中心地に近い木造家屋,商店街が密集する湯川町84番地から出火し,発見・通報の遅れに加えて異常乾燥中であったため,火災は急激に拡大して36棟1,439坪を焼失,損害額46,297,000円に達した。旅館等の大建築物への延焼阻止に成功し,午前3時30分これを鎮火した。  

 

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