五稜郭内施設案内

2016年7月25日

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配置図

 

下記の1〜5まではクリックすると説明が出ます。

奉行所のアイコン 附属建物のアイコン
土蔵(兵糧庫)のアイコン 堀のアイコン
板庫のアイコン 史跡指定範囲のアイコン
土蔵のアイコン その他表示のアイコン
板蔵のアイコン
 

箱館奉行所

 奉行所正面の写真

 

 五稜郭内の箱館奉行所庁舎は,文久2年(1862)に建築工事が開始されました。
 マツ・スギ・ヒバなどの建築木材は秋田・能代で加工され,箱館には舟で運ばれて組み立てられました。元治元年(1864)6月に奉行所庁舎がほぼ完成し,蝦夷地における政治的中心地としての業務が開始されました。なお,郭内工事や附属建物がすべて完成したのは2年後の慶応2(1866)です。
 奉行所では,(1)蝦夷地の統治,(2)開港に伴う諸外国の応接・交渉,(3)海岸防備などの業務を行っていました。
 その後,明治維新により徳川幕府から明治新政府に引き継がれましたが,明治元年(1868)10月の箱館戦争時には旧幕府脱走軍の本拠地となりました。
 箱館戦争終結後は,再び明治政府のものとなりましたが,役所として利用されることはなく,明治4年(1871)開拓使本庁舎を札幌に新築するための目的で,奉行所庁舎をはじめ郭内のほとんどの建物が解体されました。
 庁舎解体から140年,綿密な復元検討を重ねて,平成22年(2010)に箱館奉行所は往時の姿に復元されます。

土蔵(兵糧庫)

土蔵(兵糧庫)の写真

 

 五稜郭の築造当時の建物としては唯一現存している建物です。
 大正期には「懐旧館」という箱館戦争の展示資料館として利用されていました。平成13・14年度(2001・2002)の修理工事の際には,文献資料や発掘調査成果から,庇屋があったことが判明し,現在に姿に復元しました。
 箱館戦争の記憶から,いつしか「兵糧庫」と呼ばれるようになったようです。

板庫・土蔵

 文書や物品などを保管・収納していた建物で,板庫は板壁造り,土蔵は土壁造りの建物です。
 土蔵(兵糧庫)・板庫・土蔵の間は約2間ずつ離れて,3棟並んで建てられていました。
 板庫跡は休憩所,土蔵跡は管理事務所として外観を復元的に整備しています。

板蔵

 奉行所の裁きに関する記録などを保管していたと考えられる建物です。

 付属建物跡(遺構平面表示)

付属建物跡(遺構平面表示)図

 復元整備した建物の他にも,様々な建物が建てられていました。
 箱館奉行所も復元された建物は総面積(約2,685平方メートル)の約3分の1(約1,000平方メートル)で,残りの約1,700平方メートル分は地面に部屋割を区画した遺構平面表示にしています。
 この他に,秣置場(まぐさおきば)跡,御備厩(おそなえうまや)跡,仮牢(かりろう)あと,公事人腰掛(くじにんこしかけ)跡,近中長屋(きんちゅうながや)跡,徒中番大部屋(かちちゅうばんおおべや)跡,給人長屋(きゅうじんながや)跡,湯遣所(ゆつかいどころ)跡,用人長屋(ようにんながや)跡,手附長屋(てつけながや)跡などが遺構平面表示されています。
 また,平面遺構表示をしていませんが,弾薬庫がありました。

 

 


この他にも,このようなものがあります。

稜堡 

稜堡の写真

 

 稜堡とは,火器の発明により中世ヨーロッパで発達した城塞の防御施設のことです。
 つまり,火器発明以前の城郭は石製もしくは煉瓦製の高い城壁や塔により構成されていましたが,大砲が戦闘に投入されるようになると,それらは大砲の目標となり,また砲弾が当たるとその破片が多くの兵士を負傷させるようになりました。
 このため,城壁は次第に低くなり,石製から土製となり,大砲を据え付けるためにその幅は広くなり面積も増大していきました。
 また戦闘においても,長く突き出た稜堡を利用することにより,正面・側面からの十字砲火が可能となり,隠れ場所のない攻城兵に十字砲火を浴びせることができることになります。

 半月堡

半月堡

 

 半月堡は,五稜郭の正面入口を防御するための出塁です。西洋式土塁に特徴的な三角形状の出塁で,馬出塁ともいいます。
 当初の設計では各稜堡間の5か所に配置されていましたが,工事規模の縮小などから,実際には正面の1か所に造られました。
 北側中央部の土坂が開口部となっているほか,刎ね出し(はねだし)のある石垣で囲まれています。
 ※ 「刎ね出し」とは,「武者返し」「忍び返し」ともよばれ,天端から2段目の石が張り出して積ま

      れているため,外から石垣を乗り越えられにくい構造になっています。

土塁・石垣 

石垣の写真

 

 五稜郭の土塁は,堀割からの揚げ土を積んだもので,土を層状に突き固める版築(はんちく)工法により造られています。
 土塁のうち郭内への出入口となる3か所の本塁は,一部石垣造りとなっています。特に正面の出入口となる南西側の本塁石垣は他の場所よりも高く築かれていて,上部には「刎ね出し」とよばれる防御のための迫り出しがあります。
 また,石垣の石には函館山麓の立待岬から切り出した安山岩や五稜郭北側の山の石が使われています。

武田斐三郎先生 顕彰碑 

武田斐三郎先生 顕彰碑の写真

 

 五稜郭の築城100年記念にあたり,昭和39年(1964)7月に建てられた碑です。

一万号記念桜樹碑 

一万号記念桜樹碑の写真

 

 明治11年(1878)に創刊した函館新聞の1万号発刊記念に,函館毎日新聞社が公園として開放されたばかりの五稜郭へ桜の木を移植,大正12年(1923)に1万本に達しました。
 この1万本移植を記念して,大正12年5月に建立された碑です。

巖谷小波の句碑 

巖谷小波の句碑の写真

 

 「其跡や 其の血の色を 草の花」
『大正2年(1913),児童文学者の巖谷小波(いわやさざなみ)が来函され,函館図書館や寺井四郎兵衛の千代見園で主催された童話会に出席されて,それぞれ得意のお伽話を熱演された。
 会後,岡田(健蔵:図書館長)・寺井両氏の案内で五稜郭を逍遙された折,郭内に咲いていた赤クローバーの花を摘んで洋服の襟に挿されこの一句を吐かれた。』(函館市史資料第46集より)

 

 

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