市史余話 84

未完に終わった「戸井線」 不急の鉄道として突然中止に

今も残る汐泊川河口の橋脚

 国鉄が、まだ物資輸送の主役を担っていた昭和10年代に、現JR函館本線、五稜郭駅から東へ29キロメートル、史跡五稜郭跡東裏地・湯川村・銭亀沢付を経て戸井村に至る分岐線(戸井線)の敷設工事が行われました。

 この計画の調査は、軍と鉄道院により早い時期に実施され、大正9年には終了し、翌10年には亀田郡湯川村・銭亀沢村・戸井村の有志などによって工事の早期着工を目的とする期成同盟会が設けられ、促進運動に力を注いでいました。

 当時、しだいに軍事優先に傾きつつあった時代とはいえ、地域の発展を願う住民のこの計画に村する期待は、想像に難くありません。

 大正13年7月、軍の要さい地帯の拡大によって戸井村は、「津軽要さい地帯」に組み込まれ、その構築計画は着々と練られていましたが、この建設に要する資材、軍需物資、兵員などの輸送を主な目的とする同線の工事着工は、それから12年後の昭和11年のことでした。

 造成工事は、方面別に行われトンネル・石垣・橋脚と難工事の連続でしたが、17年には戸井村の瀬田来地区までつながり、湯川地区では一部レールも敷かれました。

 しかし、完成も間近い翌18年に至って「不急の鉄道」として工事は突然中止され、2年後に敗戦となりましたが、一部路線は20年4月から、やはり軍の命令によって進められた赤川飛行場(別名「函館飛行場」)造成の砂利などのトロッコ輸送に利用されました。

 この「軍用鉄道」の造成には、万を超す人の労力と膨大な経費・資材が投入され、要した歳月は7年余りにわたるものでしたが、その後、レールの延長は、ついに見られず1号列車の雄姿は幻となって幕が引かれました。

 築かれた堅固な路盤は、しばらくの間「戦争の落とし子」として、その姿をさらした後、関係市町村にそれぞれ払い下げられ、公道などに生まれ変わりました。

 汐泊川の河口には、いまなお円柱型の橋杭(脚)5基が国道「汐泊川橋」に並行して立ち、その名残りをとどめています。

 逸話とともに未完成に終わった「戸井線」。もし、これが複線軌道の計画で工事が行われていたなら、跡地は後年“下海岸線”として、あるいは「幹線道路」として生かされ、状況は今とは違っていたことでしょう。

「市政はこだて」No.621 1991.2 楯石保

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