市史余話 76
諸術調所のふしぎ 教授役は武田斐三郎ひとり
諸術調所教授役 武田斐三郎
学ぶこと、教えることは、人が生きていくうえでの原点の一つです。今回は、幕末期黒船来航といううねりの中で、新しい学問に進取の精神で取り組んだ諸術調所について紹介します。
1854年日米和親条約を結んだ徳川幕府は、伊豆の下田と蝦夷地の箱館の開港を余儀なくされました。第1次直轄(1799年〜1821年)後、蝦夷地を松前藩の手にゆだねていた幕府は、再び蝦夷地を幕府の直轄地としました。
箱館奉行が置かれた箱館は北方外交の拠点となったのです。箱館奉行に任命された竹内保徳、堀利煕(としひろ)の両奉行は、西洋の新知識を吸収し人材を育成する洋学所の設立を企画し、分析所という名称で幕閣にその設立を申請、1856年8月、老中から諸術調所の名称をもってその設立が認められたのです。
この諸術調所の教授役に任命されたのが、四国大洲(おおす)藩出身の武田斐三郎です。彼は緒方洪庵(こうあん)、佐久間象山に洋学を学んだ逸材で、箱館奉行の外交ブレーン的存在でした。
武田の役宅の隣に開設された調所では、語学・測量・航海・造船・砲術・築城・化学などが教授され、1861年には武田自身が船長となって亀田丸でロシアのニコライエフスクまで交易に出かけるなど、実践を重んじた教育が行われました。
前島密、井上勝、山尾庸三、蛯子末次郎などを輩出、蕃書調所(開成所と改称、のち東京大学となる)と比肩される存在でした。箱館から海外脱出、のち同志社を創立した新島襄もここで学ぶために箱館へ来たものでした。
ところがこの諸術調所、なぜか教授役は武田だけなのです。この時期の箱館奉行所の名簿は市立函館図書館に2種類残されていますが、いずれも、武田ひとりの名前だけです。
その他の史料でも調所の事務職員の存在は確認できますが、幕閣の承認を得て設けられた施設でありながら武田以外の教授陣はまったく確認できないのです。
さらに1864年に武田が開成所教授に転して箱館を去ると、諸術調所は自然消滅してしまったようで、実質は武田の私塾の域を出なかったようなのです。
このため、後世の者に函館に出来た最高水準の洋学所が存続しなかったことを嘆かせることになったわけです。
「市政はこだて」No.612 1990.5 紺野哲也
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