市史余話 30
西部風物詩の一つ“金森倉庫”の生い立ち
「実利・実益北海道案内」(明治36年4月発行)に掲載されている金森倉庫(左側)
末広町の金森倉庫群は西部の港湾沿いに立ち並び、一つの風物詩を生み出していますが、この倉庫の生い立ちにまつわるお話を紹介しましょう。
この周辺は、幕末には地蔵町築島(明治以降は船場町と改称)と呼ばれ、外国人の居留地や官設造船所などがありました。倉庫群の西側の一角はドイツ商人のシュルターが居住し、同じドイツ人のシュトラントと貿易の仲介をするかたわら船舶給水業を行っていました。
そういえば、先日西ドイツのニュルンベルク大学の学生が居留外国人の調査のために来室しましたが、東ドイツのポツダム公文書館にシュルターらに関する領事報告が保存されている、という話をしていました。
彼らの死亡後、その洋館は料理店(養和軒)に転用されていましたが、明治23年に洋物商の渡辺熊四郎が、これを購入して洋館は湯川に移し、跡地に倉庫を建設したのです。
渡辺熊四郎が倉庫業を始めたのは明治20年のことでした。それまでの倉庫業といえば、所有者も大手の問屋商人や海産商、それに三菱会社や共同運輸会社などの海運会社に限られ、その用途も専ら自己の営業に伴うための施設だったのです。
他人の物品を保管し、倉庫証券を発行するという近代的な企業としての倉庫業は未発達な状態でした。全国的に見ても、倉庫業が企業として成立するのがこのころですから、彼が新しい時の流れにいかに機敏であったかが分かります。
彼はまず、日本郵般(株)に合併して不用になっていた共同運輸の敷地(現在の東側の棟の区画、この土地は官設造船所、続豊治造船所、北海道運輸会社、共同運輸、日本郵船と使用者が転々としています)を同20年に購入し、その10月に2万石収容のレンガ造りの倉庫を完成させ、
(カネモリ)倉庫として開業しました。
数年で手狭になったので、前述したシュルターや隣地の旧広業商会(貿易会社)の土地の確保をして営業規模を拡張していきました。同28年の『函館町別倉庫調』によると21棟1656坪に及ぶ倉庫を所有し、断然他の倉庫業者を引き離しています。
明治40年の大火により、すべて焼失しましたが直ちに同じ場所に再建、同42年5月に完成しました(金森商船(株)倉庫部調べ)。この時の倉庫が今でも利用されているのです。
「市政はこだて」No.555 1985.12 菅原繁昭
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