市史余話 6

願乗寺川

西別院前からみた願乗寺川

 中の橋から高砂通りを通って銀座通りへと縦貫する市道のすぐ東側に、かつて願乗寺川という川が流れていました。現在でも道路や建築の基礎工事などで、歩道や建物の下に時折その遺構を見ることがあります。

 この川は、安政6年(1859)当時の願乗寺(現在の西別院)の僧堀川乗経が、松川弁之助という人と共に企画し、多くの費用をかけて開削した人工の川でした。それは亀田川を鍛治橋のあたりで分派し、中の橋を経て銀座通りにあった旧堀割に注ぐ、長さ約4キロの大工事でした。

 この川によって沿岸の人々は飲用水に不自由することがなくなりましたし、おかげでほとんど無人であった所にも人家が建ち並ぶようになりました。このことが、このころから始まった市勢東進のきっかけを作る一つの大きな役割を果したのです。

 はじめはきれいな川でしたが、汚水の流入などでだんだん汚染がひどくなり、明治期に入ると、コレラの流行のときなどは、この川の水を飲んでいた人々に多くの犠牲者が出ました。明治21年に亀田川を中の橋の所から大森浜に切り替えました。これが現在の「新川」なのですが、そのこともあって願乗寺川は水の流れが止まり、悪臭を放つドブ川同然の哀れな姿となりました。そしてこの年に悪疫の根源の汚名を着たままとうとう埋め立てられてしまいました。

 翌22年に上水道が新設されて、約30年間市内に飲用水を供給し続けた役割を、上水道に譲ったのです。

 願乗寺川の名を市民は忘れかけていますが、万延元年(1860)に建てられた「函港新渠碑」は、今も西別院境内に残っています。また、最初に述べた市道で、市内では珍しく2キロの長さで見通しのよい直線道路があるのは、願乗寺川の流路が、この部分で直線であったそのおかげなのです。

「市政はこだて」No.529 1983.10 冨原章

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