はこだて市史編さん室だより 第1号

資料紹介  「庭訓往来」と宇賀昆布

 「市史編さん室だより」を出すに当って何か市民の方にお知らせすることはないのかと考えてみました。そこで今回は函館の歴史を考える際の原点となるような資料として「庭訓往来」を紹介してみたいと思います。
 『函館市史』通説編第1巻の332頁には、「宇賀昆布と箱館の繁栄」の小見出しで、「元弘4(1334)年の著といわれる「庭訓往来」によれば、全国特産物の1つとして、宇賀の昆布・夷の鮭が挙げられている。宇賀昆布とは、いまの函館市銭亀沢のウンカ川付近に産したもので、この地は昆布の産地として有名であり、のちに志海苔昆布として知られるようになったのも、この地方のものである。そしてこの昆布は、すでに足利時代には若狭の小浜で加工され、若狭昆布と名付けられて諸国に販売された。」とあります。まず「庭訓往来」とはどんなものなのか調べてみました。
(紺野 哲也)

「庭訓往来」とは

 「庭訓往来」の字義から見てみると、「庭訓」とは、孔子が、自分の子が庭を走り抜けるのを呼びとめて詩や礼を学ばなければいけないと諭したという「論語(季氏)」の故事から、家庭で子に親が教えることで、一方「往来」とは、「往来物」のことで、最初、往復一対の手紙文をいくつも集めて編まれた形式に由来する名称でしたが、近世では初等教科書として用いられるものすべてが往来物と呼ばれたそうです。

 「国語辞典」によると「庭訓往来」は、室町時代の往来物で、応永年間(1394〜1428)に玄恵が著わしたと伝えられていますが、まだ成立時期・著者とも確定されていません。1年各月の消息文を集めた書簡集で、擬漢文体で書かれ、武士・庶民の生活上必要な用語が網羅され、江戸時代には寺子屋の教科書として広く用いられたものです。

 「往来物」は、平安時代の藤原明衡による「明衡往来」を最初として、一条兼良の「尺素往来」など7,000種が出版されており、「庭訓往来」は江戸時代に約170版が刊行され、往来物の代表(石川松太郎『往来物の成立と展開』1988年)とされています。

 「庭訓往来」の正月の往返状は新年の会、2月は詩歌の会宴、3月は大名の館造営、4月は領国の繁栄、5月は大名等の饗応、6月は盗賊討伐、7月は遊技競技会、8月は司法訴訟関連、9月は寺院大法会、10月は大斎行事、11月は病気治療、12月は地方行政の模様で、往状だけの8月の書状は将軍家の威容を伝えるものです。

諸国の名産品にあげられた宇賀昆布

 宇賀昆布が全国の産物と共に記載されているのは4月の書状で、4月11日付け返状がそれです。この書状は、諸国商人の交易に関して商取引の施設と商品に話が及び、諸国の名産品と言える商品が取り上げられています。

 
江戸時代になって刊行されるようになった「絵本庭訓往来」のなかの「宇賀昆布」が掲載されている箇所(東京学芸大学付属図書館所蔵)

 まず、「大舎人綾、大津練貫、六條染物、猪熊紺、宇治布、大宮絹、烏丸烏帽子、室町伯楽、手島筵、嵯峨土器、奈良刀、高野剃刀、大原薪、小野炭、小柴鳶、城殿扇子、仁和寺眉作、姉小路針、鞍馬木芽漬、醍醐烏頭布、東山蕪、西山心太」と京都周辺の産物が並び、此外とあって諸国の産物が「加賀絹、丹後精好、美濃上品、尾張八丈、信濃布、常陸紬、上野綿、上総鞦、武蔵鐙、佐渡沓、伊勢切付、伊予簾、讃岐円座、同壇紙、播磨杉原、備前刀、出雲轡、甲斐駒、長門牛、奥州金、備中鐵、越後塩引、隠岐鮑、周防鯖、近江鮒、淀鯉、土佐材木、安藝榑、能登釜、河内鍋、備後酒、和泉酢、若狭椎、宰府栗、宇賀昆布、松浦鰯、夷鮭、奧漆、筑紫穀、或異国唐物、高麗珍物)」と続いています。

 江戸時代に入ると「庭訓往来」は寺子屋での最も一般的な教科書となり、内容の説明に重点を置いた「庭訓往来註」のようなものも出版されました。

 その「註」によると、たとえば「大舎人綾」は「アヤノミ織ルニハアラズ、萬ノ衣ヲバヲルナリ」とあり、また「醍醐烏頭布、東山蕪、西山心太」は「皆今アリ、不審モナシ、子細モナシ、都ノ名物ナリ」との説明がつき、「奥州金」は「陸ノ国ニ岩狭郡信夫ノ庄ニ掘金ナリ」、「越後塩引」は「越後塩引ニアマタアリ、先鮭ノ塩引歟北国ニハ鮭多シ取分越後ハ鮭ノ本ン所ナリ」とかなり具体的な説明がなされています。しかし、「宇賀昆布」は「越前ノ敦賀ニ着クト云ヘリ」とだけあって、「宇賀昆布」そのものを説明する記述はなされていません。敦賀港に海上輸送されて来た商品であるとの認識は明示されています。

道南の昆布だけが「真昆布」だった

 「庭訓往来」が成立したとされる14世紀末から15世紀初頭には、「宇賀昆布」は京都周辺の商人の間では知れわたった存在となっていたと言えますし、「宇賀昆布」は海を舞台に活躍する商人が蝦夷地へやって来る要因となっていたものと思われます。

 また、江戸時代に蝦夷地に来てこの地の昆布を見た人々は、一般教養とも言える「庭訓往来」の「宇賀昆布」への関心を示すのは当然とも言えるわけです。

 江戸時代、蝦夷地にきて紀行文等を残した人は大勢いますが、天明期を代表する狂歌師の1人 平秩東作 もさきがけの一人です。彼は天明3(1783)年9月から7ヶ月間ほど江差に滞在し、蝦夷地に対する並々ならぬ関心を示した著作「東遊記」を残しており、「庭訓往来に雲加の昆布といへるは東方雲加といへる所より出る… 箱館辺の浦より出るもの上品也」と記しており、ここでも昆布が重要な産物であったことが確認できます。

 一体、この宇賀昆布とはどんなものだったのでしょうか。

 それがある日、七飯町の峠下にある「昆布館」で、昆布の生態に関する説明パネルを眺めていて突然ひらめきました。道南の昆布以外は、産地と形態が昆布の名称となっているのに(日高昆布、利尻昆布、羅臼昆布、長昆布、細目昆布等々)、道南の昆布だけが「真昆布」だったのです。

 「鯛」という魚は沢山の種類があり、鯛の中の鯛を「真鯛」と言うように、昆布の中の昆布は「真昆布」と呼ばれるのです。すなわち、その辺の昆布とは「格」が違ったのです。江戸時代この道南の昆布の最上級品が「献上昆布」(初期は「志苔昆布」、その後、より品質の良い昆布が尾札部付近で採取されるようになり「尾札部昆布」がその名で呼ばれた)と呼ばれていたことに納得がいきました。

 さらに北海道昆布協議会に問い合せて、「最近の日本における昆布生産高は約3万トン、その内の9割が北海道で生産され、残りの1割が東北地方の北部3県」ということを確認して、中世期蝦夷地と呼ばれ始めたこの北海道に日本人がやってきた最大の訳は、この真昆布であると言っても過言でないと思うに至ったのです。

 ですから「庭訓往来」に宇賀昆布の名があげられていたのも、当然のことだったと言えましょう。

(紺野 哲也)