鯨族供養塔

1957(昭和32)年9月、天野太輔建立

場所 西中学校横(船見町)
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碑文

(鯨模型)
背美鯨  SEMIKUZIRA

(表)
明治四十年以来捕鯨事業ニ従事センコト二十六年ノ長キニ及ビ其ノ間ニ於ケル捕鯨頭数実ニ貳阡数百頭ニ達セリ 此多数ノ鯨族中ニ親子連レノモノアリ此ヲ捕獲セシ事数度ニ及ビ 尊キ鯨族ノ生命ヲ奪ヒタル其ノ罪誠ニ慚愧ニ堪エズ 是ニ報ユル道ヲ講ゼザルベカラズ カネテヨリ考慮セシ折妻ノ死ニ遭ヒ一層其ノ感ヲ深クセリ
サキニ吾子三人ヲ失ヒ当時何等痛惜ノ情感ゼザリシモ年老イシ今日痛切ニ人世ノ無情ヲ感ズルニ至レリ 此ニ老於テ此等諸精霊ノ菩提ヲ弔ワントスル意志勃然トシテ起リソレラ達成セシメント此所ニ鯨族供養塔建立ヲ思ヒ立チ鯨族ノ冥福ヲ祈願セントス
   昭和三十二年九月建之時八十有三歳

(右側)
賛助員芳名
大洋漁業株式会社殿
日本水産株式会社殿
極洋捕鯨株式会社殿
日本近海捕鯨株式会社殿
日東捕鯨株式会社殿

(左側)
背美鯨ハ日本沿岸ニ相当数回游シ来リシモ外国捕鯨船ニヨル酷捕乱獲ノ結果遂ニ殆ド其ノ姿ヲ認ムル事能ハザルニ至レリ然ルニ日本ニ於テ汽船ニヨル捕鯨方法ヲ採用後吾レ此絶滅ニ近キ背美鯨ヲ我国沿岸ニ於テ第二頭目ニ捕獲セリ当時会社側ニ於テ大イニ其ノ功績ヲ激賞シ其ノ褒章トシテ金側懐中時計一個ヲ贈與セラル其ノ時計ノ両蓋裏面ニ左ノ如ク刻印シアリ
明治四十四年五月十七日背美鯨捕獲記念
贈 砲子兼船長天野君
          紀伊水産株式会社

(裏)
背美鯨は 鯨族中食用として肉の美味なるを以て最も適当なるが故に捕鯨家の垂涎措く能わざる所なりと雖も今や絶滅に近く日本捕鯨家で僅かに数頭而己の捕獲なり現今にては背美鯨捕獲は絶対禁止到しあり此後数年間は背美鯨の姿を見る事能はざるに到る是を 思い此供養塔の頂上に背美鯨の模型を造り 安置到せしなり
背美鯨は 長さ参十尺より六十尺位に至る(此模型は八尺なり)体躯圓潤にして旦長大頭部 亦 大にして少々 隆起す 噴水孔二箇あり 頭上に位す 背上に鰭なく頬に沿って左右二葉の鰭あり是れを 立羽と称す
全身黒色にして口辺に髭を有す 此髭は 上頭の中央より出口の両側に列し頗る長し其教一列に三百を 起ゆ 尾は魚の如縦扁ならずして地平に開帳し新月形をなす 其性強猛にして海岸近寄らす 体重量五十尺標準壱万参阡五百貫位

(台座)
鯨族供養塔

遠洋捕鯨会社船長
     兼 天野大輔建立
捕鯨船鯨洋丸砲手
昭和三十二年九月

解説

 背美鯨の模型が据えられているこの供養塔は、昭和32(1957)年9月、遠洋捕鯨会社の捕鯨船船長兼砲手の天野太輔が、碑文に刻まれているとおり、生業とはいえ殺生の罪深さを痛感して建てたものである。
 函館(箱館)と捕鯨の縁は古く幕末期に遡る。幕末期、諸外国への対応のため蝦夷地(北海道)は2度にわたって幕府直轄地とされたが、このときから幕府の捕鯨業への関心は高く、平戸藩に協力を依頼してエトロフ方面で調査などが行われた。
 安政元(1854)年、箱館が開港され、再び幕府直轄地になると、幕府は改めて捕鯨業に関心を示すようになった。箱館開港の大きな要因となったアメリカの捕鯨船が、活発に活動し、箱館にも盛んに入港していたことが示すように、北太平洋の捕鯨業の経済性が顕在化したためである。度重なる入港で、西洋式の捕鯨技術なども伝えられようになった。
 その後も、捕鯨に関する調査は続けられ、アメリカ式捕鯨を経験してきた中浜万次郎(ジョン万次郎)を招いて指導をさせるを計画やプロシヤ船から技術を学ぶなど、試行錯誤が続けられたが、1859(安政6)年にアメリカのペンシルバニア州で石油が発見されて、鯨油の価格が低下、捕鯨業が国際的に退潮期に入ったので、結局、この時に西洋式捕鯨が実現することはなかった。

参考文献

「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、『函館市史』通説編第2巻(函館市 1990年)、昭和34年2月15日付け「道新」

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管理:函館市中央図書館   更新 2008.4.1