啄木一族墓

1926(大正15)年8月1日、宮崎郁雨、岡田健蔵建立

場所 住吉墓地内
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碑文

(表)
啄木一族墓

        啄木
東海の
 小島の磯の
     白砂に
われ泣きぬれて
   蟹とたはむる

(裏)
これは嘘いつはりもなく正直にいうのだ
「大丈夫だよしよしおれは死ぬ時は函館
へ行って死ぬ」その時斯う思ったよ何
処で死ぬかは元より解った事ではないが
僕は矢張死ぬ時は函館で死にたいよう
に思う君 僕はどうしても僕の思想が時代
より一歩進んでいるという自惚をこのご
ろ捨てる事が出来ない

明治三十四年十二月二十一日
     東京本郷弓町二の十八 石川啄木
 郁雨兄

解説

 石川啄木(本名:一(はじめ) 1886年〜1912年)は、郷里を出て各地を放浪したが、「死ぬときは函館で……」と言わせたほど函館の人と風物をこよなく愛した。
 啄木が、函館に住んだのは明治40(1907)年5月(5日)から9月までの短い期間だったが、この間の生活は文芸結社、苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)の同人らに温かく迎えられ、離散していた家族も呼び寄せての、明るく楽しいものであった。当初は函館商業会議所の臨時雇として働くかたわら、苜蓿社の文芸雑誌「紅苜蓿」(ベニウマゴヤシ、通称ベニマゴヤシ)の編集をしていたが、6月には弥生小学校の代用教員として2度目の教員生活を送り、さらに8月17日からは函館日日新聞の記者を務めた。
 しかし、幸せな生活も長くは続かず、明治40年8月25日に発生した大火で市街地が大きな被害を受け、函館日日新聞社も罹災、啄木は失意を胸に9月13日、札幌へと移っていった。
 その後、小樽、釧路を経て、再び上京するが、明治45年4月に病魔におかされ、27歳の生涯を閉じた。啄木の遺骨は妻節子の希望で、大正2(1913)年3月、函館に移されたが、彼女もまた同年5月に後を追うかのようにこの世を去った。
 この墓碑は、大正15(1926)年8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や、後の函館図書館長岡田健蔵の手で建てられたもので、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが、津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。
 裏面の一文は、明治43(1910)年12月、啄木が郁雨宛てに送った私信の一節である。

参考文献

「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館市史資料集」第26集・第27集・第46集(函館市史編纂委員会)、「北海道文学大事典」(北海道新聞社 1985年)

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管理:函館市中央図書館   更新 2008.4.1