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函館病院と栗本匏庵函飴病院の発端は栗本鋤雲、塩田順庵の両先生に負う処が多い。夫れは此二先生が町医者の為めに医書を講義した、其報酬が積んで百余金に及んだ、そこで其金を以て貧民に施薬施療をする傍ら山の上町の雁の字の病気を治療しようとしたのが最初である。丁度其時魯西亜領事のゴスケウヰッチが病院を建て施薬すると云ので、之を聞た奉行所では国家の体面上外人から施療を受けてはならぬと云意見で急に匏庵先生等の企てに特別の保護を加える事となった。それに竹内鰊奉行が江戸に上るので夫れ迄に上棟式を挙げようと大急ぎで工事を起した。漸く万延元年の十二月に上棟式を挙げたが其晩も恐ろしい大吹雪で、折角建てた病院も丸潰となった。こんな意外な災難に逢ったが、翌年山の上の遊女屋の共有金二千余円を借入れて新築する事が出来た。之が二百余坪の建物で今の舶見町四十番地附近である。栗本先生の名は鯤、通称は瀬兵衛匏庵と号せられた。箱館には安政六年から六ヶ年の間在住せられて、病院の事は勿論七重の薬園、牧畜の監督、久根別川を利用して函館に船を通ぜしめたなど、兎に角沢山の面白い企てをされた。其後軍艦奉行、外国奉行、箱館奉行など歴任せられて横須賀造船所、仏国語学所の創設や其他種々の事を計画された。慶応三年に仏蘭西に特使として派遣せられたが帰って見ると天下の大勢が一変して居るので、爾来官途には仕へなかった。後毎日新聞や報知新聞の主筆となられて晩年には東京学士会員にも挙げられた。明治三十年七十六歳で歿せられた。兎に角函館には忘られぬ人である。少なくとも函館病院あたりでは先生の肖像位は掲げて置く雅量があってほしい。筆跡は先生巴里に於て撮影の写真の裏に自署せられたもので当時七重薬園に関係した人に贈ったものである。 |
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