函館脱出当時の新島襄先生
日本三大私学の一たる京都の同志社大学は慶応、早稲田と共に我邦私学の珍とする処である。顧みるに其創立者にして完成者たる新島襄先生は二十一歳の壮時を以て此函館に来りニコライ主教の邦語教授となりたるが其年即ち元治元年六月十四日、而かも草木も眠る丑満時を福士宇之吉氏(今札幌に住し名を成豊と改たむ)の好意に依り国禁厳かなる海外脱出を企てたのである。
福士氏は武士に先生は従者に扮して狭き道を海岸に到り今や小舟に移ろうとして警邏に認められたるも幸い無事なる事を得て米船「ベルリン」号に乗る事が出来た。翌朝は思出多き故国を後に船は上海を指して発した。後米国アルフュース、ハーデー氏の所有船ワイルド、ローバー号に移り遂にハーデー氏の知遇を受けてアーマスト大学を了り今日の同志社の萌芽を作るに至ったのである。惜い哉四十七歳を一期として明治二十三年一月二十三日を以て永き眠に就かれたのである。
写真は函館脱走当時従者の服装を撮れるものにて魯西亜の写真師の撮影と言へば恐らくゴスケウヰツチ氏の事ならんか。
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