通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ


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第13章 社会・文化諸相の光と影
第2節 マス・メディアと活字文化
3 書籍の刊行

諸雑誌の発刊

その他の出版物

諸雑誌の発刊   P1454

 明治期になって各種の雑誌が続々と刊行されるようになるが、その中でも明治7年創刊の『明六雑誌』、明治9年創刊の『東京新誌』、明治10年創刊の『於東京絵団団珍聞(おとけえまるまるちんぶん)』などは著名なものである。
 加藤弘之、中村正直、西村茂樹、福沢諭吉など高名な啓蒙思想家達が論陣をはった討論雑誌として華々しく登場した『明六雑誌』は長続きせず、創刊の翌年、政府の言論弾圧政策に沿った「新聞紙条例」、「讒謗律」の制定を契機とし、11月発刊の第43号をもって廃刊になってしまった。しかし、明治時代の諷刺漫画「ポンチ絵」の源流として知られるイギリスの滑稽絵入り雑誌『ザ・パンチ』に類似した『団団珍聞』は政治批判や社会諷刺の記事による度々の筆禍にもめげず、明治40年頃までは発刊が続いていたのである。

巴珍報      P1454−P1457

 函館では、かねて滑稽と風刺を気取った雑誌として『巴珍報』の発刊が計画されていたが、明治15年10月4日、その第1号が発売になった。同日の「函館新聞」紙上では『巴珍報』の発刊をとりあげて、「風雅と洒落の雑誌にて本港の通人達が面白い投書を何くれとなく書集め、女子供にもわかる様傍訓(かな)雑りの至極いき筋の小型の冊子」として宣伝している。創刊号の目次は叙、諸家祝詞、諸家詩、温古随筆蝦夷楽器の事、狂詩、雑話、都々一、函館芸者細見、古今粋書目録となっており、社説をもじって茶説としたりして『団団珍聞』の模倣がうかがわれる。明治11年1月創刊の「函館新聞」には早くも翌2月、東京の「団団社」が『団団珍聞』の広告を出しており、函館の書籍店にも入荷の記事があるので、『巴珍報』は函館における『団団珍聞』愛読者層からの支持を意識して編集されたものであろう。
 『巴珍報』は四六版の袋綴じ、本文は10枚前後の体裁であり、社主は末広町で紙類卸売業を営む糠谷弥七郎、編集は「函館新聞」の岡野敬胤が担当していた。また、発行は毎月2回、定価は1部6銭、発行所は巴社と名づけ仮本局を糠谷の店においた。この創刊号は好評で1000部以上も売れ、以後は毎月4日と18日に発行し、市内の書籍店以外に松前、江差、寿都、森、紋鼈、根室、小樽でも発売することになった。さらに、一般読者からの、投稿を歓迎し、川柳、狂歌、都々逸などは毎回社題を決めて広告し、応募作品は次号に掲載する方式をとった。これらの作品にはそれぞれ本名ではなく、ペンネームを使っているので、どのような人達が投稿しているのかを知ることは困難であるが、この頃の函館には、かなり多くの風流人がいたことは推測できる。当時の豪商杉浦嘉七も由縁舎色香(ゆかりやいろか)という雅号を用いて毎号のように多くの作品を寄せているし、そのうえ、『巴珍報』発刊にあたっての出資者の1人でもあったようである。編集者の岡野は日高郡様似で出生、その後各地を転住して明治14年6月来函し函館師範学校付属小学校予備教員となり、8月には「函館新聞」の編集長代理を務めていたが、後に印刷人になり、16年から19年までは編集人として名を連ねるようになった。また、『巴珍報』ではペンネームを我物傘雪(わがものさんせつ)と称して茶説なども書いていた。なお、岡野は知十とも号し俳人として著名であり、俳諧関係の著書を多く残している。
 この『巴珍報』に挿絵を描いていたのが、日本画家として有名な平福百穂の父、平福穂庵である。穂庵は秋田県角館出身、晩年には上京して中央画壇でも活躍した人物であるが、この時期は函館に滞在していて、かつて知遇を得ていた盛岡の商人瀬川安五郎の函館出張所の仕事を手伝っていた。また、函館で取材したアイヌの風俗画を数点描いたりしているので、画才を発揮しつつ約2年間をこの地で過ごしたものと思われる。
 ところで、穂庵が函館滞在中に秋田県令より函館県令宛に送られてきた文書が道立文書館の簿書に保存されているので、次に紹介しておこう。

拝啓、陳ハ本県画工平福順蔵事穂庵ヘ今般仏国巴里府ニ於テ日本画出品ノ義ニ付、該地会頭ヨリ照会有之候処、右順蔵義ハ御管下ニ遊歴罷在候趣ニ付、御手数ノ義ニ御座候得共右出品心得書ニ比準シ早速相認メ、日限迄ニ出品候様御伝達被下度、則規則類相添此段及御依頼候也
                                      秋田県令
    十六年十一月廿日
         時任函館県令殿
                                                 (「本県各課往復」道文蔵)

 これは要するに、明治17年3月にフランスで開かれる「第二回巴里府日本美術縦覧会」へ穂庵の出品を要請されていることを函館まで知らせてきたもので、この時は「鷲」という作品を描いて提出したのである。また穂庵は17年4月、函館で出版された『函館繁昌記』にも「函館全景図」を口絵に描いている。この『函館繁昌記』は、やはり当時函館滞在中の文人高須墨浦(治助)が函館市街の現況や風俗などを記した漢文体の本である。これは、明治初期における話題の出版物『東京新繁昌記』(前編は明治7年、後編は同15年刊)と同類のもので前・後2編から成り、函館の公園、芸妓、温泉、割烹店、西洋料理、勧工場、遊郭、女紅場などの様子を描写している。
 『巴珍報』は明治16年4月、新聞紙条例改正により発行の際の保証金納付制度導入に対し、「我巴社の如きも元色男の企てなれば、豈に保証金を出す力あらんや」(『巴珍報』第15号)として5月18日発行の第15号を最後に廃刊することになった。ちなみに、このような発行保証金供託不能のため、5月18日までに廃刊届けを出した新聞・雑誌は東京地区に限っても32誌におよんだのである。なお、『巴珍報』は廃刊しても巴社は解散せず、記事、体裁を「大いに改め精々面白く書き綴った」『巴冊子』と改名して翌月から発行することを最終刊の末尾に広告しているが、その後、同名の雑誌が発刊された形跡はない。

可愛良集   P1457−P1458


『巴珍報』と『可愛良集』
 『巴珍報』の廃刊が決定した時期に同じような体裁、内容の雑誌として『可愛良集(かわいらしゅう)』が発刊されていた。この雑誌は、明治16年5月5日に出版届けが出されており、5月7日に出版され定価は1冊6銭であった。発売元は抱月亭(だきつきてい)と称し、「函館新聞」売捌所であった末広町の愛新軒内がその所在地であった。抱月亭の「亭主」はゆかりや色香(杉浦嘉七)、「番頭」が我もの傘雪(岡野敬胤)、「居候」がくさのや酔庵(平福穂庵)の3人になっている。この3人とも『巴珍報』の創刊以来のメンバーであり、『可愛良集』も杉浦と岡野が執筆し、平福が挿画を描いていた。また、一般投書家の都々逸などを精選し、その他各種の洒落、滑稽、人情話を載せて毎月1回発行の予定であった。
 しかし、同年5月12日の「函館新聞」に『可愛良集』の出版を知らせる記事と広告が出ているものの、それは『巴珍報』の廃刊と『巴冊子』の創刊についての記事(同年5月24日「函新」)より以前であることから推察すると、『巴冊子』が名称を変えて『可愛良集』となったわけでもない。また、『可愛良集』の初編と『巴珍報』の第15号(最終刊)と並列して愛新軒が広告を出しているので、同じメンバーによる似かよった形態の雑誌が同時期に出版されていたとするのが妥当と思われる。あるいは、前述の発行保証金供託不能が原因で、『巴珍報』と『可愛良集』は共に廃刊となり、その一方では、『巴冊子』の出版も実現できなかったのかもしれない。
 現在、『可愛良集』の初編1冊が市立函館図書館に所蔵されているのみで、当時の「函館新聞」によっても、この雑誌のその後の動向を追うことはできないのである。

北海通誌   P1458−P1459

 明治12年2月、北溟社内に自邇社を設け、『北海通誌』を発行したいとの願書が内務卿伊藤博文宛に提出された。この雑誌は琉球紙12枚摺の小冊子であり、持ち主は弁天町の商人蛯子七郎衛門、編集人は宮村直義、印刷人は伊藤鋳之助となっていて、毎月2号宛発行を予定していた。その内容は2月19日付の願書によれば、「論説ヲ初メ勧業上総テ要用事件ヨリ詩歌等記載セルモノニシテ」(北溟社「諸願届書」)と述べており、4月11日に発行された創刊号の目次を見ると、農学校某ヨリ稲田等ニ寄スルノ書、山林保護ノ説、七重試験場ノ景況などとあって、一種の勧業雑誌をめざしたもののようである。
 その緒言によれば、近年、世間に流布している新報、雑誌の類は数十種を下らず、それによって庶民は内外の事情を知り世論の方向を察することが出来るようになった。ここ函館においても新開発刊以来、既に1年を経過し、北海道開拓進歩の景況はその概略を知ることが可能になったが、全道の状況を網羅するには至っていない。そこで、「今、本誌ヲ発行シ農耕牧畜漁猟採鉱製物ヲ初トシ、凡開拓事業ノ進歩ヲ徴スベキ事項ヲ網羅採輯シ、傍ラ詩歌ヲ掲載シ聊カ諸君ニ補益スル所アラントス」と、この雑誌の意図するところを述べている。
 4月の発刊から6月までの3か月で1914部が売れ、その内訳は北海道内がほとんどであるが、東京でも88部、その他、福島、山形、青森、鹿児島各県で5、6部ずつ売れている。ところが、同年12月6日の大火で罹災し、「明治十二年三月四日発行免許ヲ蒙、是迄発行致来候処、今般本社類焼ニ罹り活版器械其他附属品共悉皆消失候ニ付、本月七日ヨリ十三年一月 (ママ)日迄ヲ限り休業致度」(同前)という休業届けが出されたのである。結局、11月30日発売の第16号の広告が函館新聞に載ったのを最後に大火後再刊された様子はなく、そのまま廃刊に至ったものと思われる。

北海道学事新報   P1459−P1460

 明治14年7月15日の「函館新聞」紙上に次のような記事が載せられた。

今度弊社内へ仮に北海道学事新報社なる社を設け、社名同様なる雑誌をバ毎月二号宛発兌の見込にて目下発行出願中なり、此誌は専ら教育上の官令布達及び論説記事より当道各校生徒の作文等を載録するものなれば、教育有志の方ハ右事項の投書は素より願済次第直ちに発兌の積りゆへ、其節ハ改めて広告し升から御覧の程を願升

 つまり、「函館新聞」を発行している北溟社内に北海道学事新報社を仮設し、教育関係の論説や記事と北海道内の学校生徒の作文を載せて『北海道学事新報』と名付けた雑誌を出すという予告をしたのである。次いで8月26日の同紙上には、この雑誌の発行許可がおりたので、「当道教育有志の諸君ハ右に関する事項ハ細大共御投書下され度、且近日発兌の筈に付御高覧下され度候」と広告した。
 実際にその第1号が発刊されたのは9月21日のことであり、1冊の定価は4銭で毎月2回の発行を予定していた。この雑誌の持ち主は魁文社の支配人であった佐々木忠兵衛(後に改名して佐々木良蔵)、編集兼印刷人は「函館新聞」の印刷人でもあった小平金次郎、同補助としてやはり「函館新聞」関係者の岡野敬胤の名前が連記されている。
 『北海道学事新報』の創刊号では、官立師範学校教員と各小学校教員有志による函館教育協会の設立計画を報じ、さらに、函館教育協会の設立が実現した後の第6号(12月15日発行)では、その函館教育協会の書記に選出された岡野が「函館教育協会」と題して巻頭の論説を執筆している。
 この『北海道学事新報』は明治14年中には予定通り毎月2回発行されていたが、翌15年になると1月は1回、2月、3月は2回、4月、5月、6月は各1回ずつと次第に不定期になっていった。遂に、6月18日刊行の第15号末尾の記事に、役員改選など函館教育協会の報告事項を載せたのを最後に発刊が絶えてしまったのである。同年10月には、函館教育協会の機関誌として『函館教育協会雑誌』が発刊される運びとなるが、このあたりの事情については、既に第10章第5節に詳述してあるので参照されたい。
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