| 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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第6章 内外貿易港としての成長と展開 開港期の欧米系商社と外国商人 |
開港期の欧米系商社と外国商人 P718−P721 開港期の外国貿易については『函館市史』通説1で各年次ごとの品目別貿易額を詳細に記述し、さらにその担い手の問題に関しては函館市中の流通機構との関連から主に仲買商人を取り上げている。この新興商人である仲買商人の動向に関しては岸甫一氏が「箱館開港と沖之口流通支配」(『地域史研究はこだて』第5号)で詳しく論述している。それによると開港初期の事情として特権的な問屋・場所請負人は北海道海産物を売って洋銀を受け取っても内地交易に回すことが困難であるため貿易取引は忌避されて、外国向け輸出の大部分はいわゆる仲買商人が担当していた。当初彼ら仲買商人は奉行所調役に身元が薄資でその日暮らしのものであると評されるくらい不安定な状態から交易が開始されたが、やがて仲買商人のうちから資力を得て特権商人より上にランクされるものも輩出したという。それではもう一方の担い手(つまり買手側)である外国商人についてはどうであろうか。開港後、外国商船は貿易を求めて来港してきた。こういう外国商船に対して異人仲買が対応したわけであるが、まもなく函館に外国商人が居留するようになり外国商船−居留外国商人−仲買−荷主というルートが確立されるようになってくる。この居留外国商人にもさまざまな階層があった。 我が国の開港後、上海を東洋貿易の本拠とした欧米の貿易商社がまず日本の本拠地として長崎あるいは横浜に進出してきた。それらの多くはさらに函館にも代理人や支配人を置き、産物の買い付けなどを行わせて中国市場へと輸送させた。いわば来函した外国商人はこうした出先機関的な商人が多かった。こうした事情に関して1860(万延元)年10月に来函中のヘボンはラウリー博士あての書簡で「(函館の)外国人は約三十名、ロシア、アメリカ、イギリスの諸領事館に属する人たちです。外国商社はわずか二つか三つで上海の外国商社の代理店です。たいした外国貿易もなさそうです。外国人向けの貿易商品ぐらいのものです。主な輸出品は魚の乾物と海草です。中国にも輸出されていますが、大多数は江戸と大阪に日本船で輸送されるのです。」(『ヘボン書簡集』)と書いている。例えば安政6(1859)年イリサメール号で来港し柳田藤吉と昆布取引をして、その後数年函館に居留したイギリス商人のアストンはリンゼー商会(Lindsay & Co.)の代理人であったし(マキシモヴィッチ『箱館日記』)、ポーターはデント商会(Dent & Co.)の支配人であった。また彼らとは別に資本的な背景を持たない冒険的商人ともいうべき存在も見られた。アメリカ人ライスは貿易代理人という肩書きで和親条約時代に来函し、領事業務を兼ねて自国船、特に捕鯨船に食料等を斡旋するなどの業務を営んでいたが彼の場合はこうした階層の人物といえる。 表6−23は幕末から明治初期にかけての商業関係の居留外国人の一覧であるが、それによれば貿易を担当した商社はイギリスのデント商会、同リンゼー商会、プロシャのクニッフラー商会(L.Kniffler & Co.)などの支店であり、その他に共同出資形態をとった小規模の貿易商がいたことがわかる。こうした小規模のものは年次によりパートナーが交替しているものもあるが、それは数年の契約をして共同事業を興しているため破産などによりそれぞれパートナーを変えるということもあった。またポーターの例のように当初支店支配人を勤め、その後独立して商業を経営する場合も見られる。なおデント商会はジャーデン・マセソン商会とともに安政6年の開港と同時に横浜にのりこんできたのはイギリス系の2大商社であった。両者は中国貿易で充分な蓄積をおこなっており、わが国では生糸取引を主軸に巨額の取引を行っている(石井寛治・関口尚志編『世界市場と幕末開港』)。デント商会は安政6年に早くも函館に支配人のポーターを派遣している。 |
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