| 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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第6章 内外貿易港としての成長と展開 海産物貿易港 |
海産物貿易港 P709−P711
こうした動きは後述するように政府保護の貿易会社である広業商会の設立により昆布生産に資本が投下され、その結果輸出の増加をみたものであった。ところが14年末からの不況により外国貿易もにわかに不振となり、15年から17年にかけて減少傾向を示した。しかし3県期の後半には次第に回復のきざしがみえはじめ、18、19年は60万円台にもりかえしている。表6−19のように、わが国全体としては14年まで輸入超過、15年以降は輸出超過へと転ずるのに対して函館の場合は一貫して輸出超過の状態であった。それは函館の輸出は大半が清国向けのものであり、清国から当港に輸入すべき物産に乏しかったこと、また本道において需要の外国製品の多くは欧米の生産物であり、それらは主に横浜経由で移入品として入ってくるため表面上では絶えず輸出超過という状態が続いた。 函館の輸出は後述するように昆布をはじめとする海産物中心の特性を有していた。海産物以外としては硫黄、鹿角、毛皮があげられる。また海産物は全てが函館から輸出されずに、時にはその一部が函館から横浜に移出され、横浜から輸出される場合もあった。海産物を中心とし、かつその市場が清国に集中するという特性は開港以来、函館が持ってきたものであり、明治前期においても海産物輸出港としての函館の機能と特性は開港以来一貫して継承している。それは言うまでもなく函館が道内の生産物の集散基地であったことによる。そしてこの特性は明治前期では一貫して失われことのないものであった。また特にこの時期は昆布市況の変動が函館市場における外国貿易を規定するといっても過言ではない。従って明治前期の貿易は昆布輸出の流通過程と、その担い手の展開が中心となる。 一方函館の輸入については13、14年を例外として他の年次は数千円からせいぜい3万円台を上限として推移している。その主な輸入品は繊維製品と砂糖類に限られていた。13、14年に関しては官用の輸入品であり、開拓使自らが輸入している。しかし前述したように函館は横浜経由の輸入品市場として相当程度の搬入が見られた。ちなみにこの期間における函館の輸出入の貿易額はわが国全体の貿易のなかでは14年の1.5パーセントが最高で、7年の0.63パーセントが最低値である。幕末の函館港の貿易額の対全国の構成比は2〜5パーセントであるので、函館の占める位置はむしろ低下しているが、輸出額は増加しており、海産物の輸出港としての特性にはみるべきものがあるし、また輸入品も統計上では直輸入が少ないため、輸入港としての特性はないように思われるが、外国製品の消費市場として一定に位置を占めていた。 |
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