| 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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第6章 内外貿易港としての成長と展開 商取引の是正 |
商取引の是正 P675−P678
すでに、開拓使は明治10年に函館相場会所条例を公布し、物価の高低を審査する相場会所を設け、明治11年9月函館支庁より魚粕の荷造は1個15貫内外を基準とし、精密に行うよう管内に布達している。 相場会所は公益のための官民共同の機関であって、頭取のほか、副頭取、書記などをおき、出入物品の価格や商況を調査し、毎土曜日毎に物価表を印刷し、道内はもとより広く府県に配布し、あるいは新聞紙上に掲載するなど、その周知に務めた。函館市中の中等以上の財産を有し、商業に習熟する者数十名を委員として選定し、日々の売買の実況を報告させ、かつ、会所書記を派遣して、商況を調査させるなどして、精度の高い物価表を作製し、広く信用されていたが、明治15年6月をかぎり、廃止されている。 従来の魚肥の荷造法は、一般に粗大で、特に締粕は「竪一本」と称し、24、5貫から27、8貫の大俵に造るのが普通で、船舶の積卸し、車馬の搬送に不便であるばかりでなく、脱漏、遺棄するものが少なくなく、生産者、需用者双方の不利益となった。また俵造が一定しないため、船積、売買授受にあたり、抜取検査を必要とするなどの弊害も生じた。 しかし、荷造改良の実は、なかなかあがらず、明治15年以降、魚粕価格が暴落し、生産者が困窮を極めたことが、それを助長した。明治18年になって、根室県が大阪商法会議所に諮問して、魚粕苞装荷造は20貫目内外に改良するのが良いとの答申をえ、それにそって荷造改良計画をたてて函館県に協議してきた。函館県では折から開催中の商事諮問会にはかったところ、満場一致で改良の必要が認められた。そこで函館県では、根室、札幌両県に協議のうえ、同年8月に改良案を諭達し、19年1月より実施することになった。ここに、20貫目内外を基準とする魚粕荷造法の基礎がかたまり、着々とその効をあげることとなった。 この間にあって、荷造改良に尽力した人に遠藤吉平がいる。吉平は函館にあって北海産物の内地移出を業としていたが、明治11年に三菱会社の汽船に荷物を搭載し、品川に積送ったところ、荷物の破損により多大の損失をこうむった。船主の三菱会社は、明治8年に太政官より発布された貨物回漕条例を盾に、船荷証券の裏面に、荷造粗造による荷物の増減は船主に責任がないと記載してあるとして受付けなかったのである。これを契機に、荷造改良の必要を痛感した吉平は、しばしば関係官庁に建言し、各地の商業会議所に意見書を出し、あるいは博覧会に改良俵装の雛形を出品するなどの労をおしまなかった。明治18年に北海道の魚粕荷造法の改良が決まったのも、吉平の唱導によるところが大きいというし、その後も、全国の諸品の荷造改良に貢献した。
農商務省の意図では、管下の重要物産に限って同業組合を設立する方針で、函館県の「商業組合例則」の精神とちがっていたが、そのままに据え置かれ、このように多くの商業組合が設立された。また、これら商業組合が商取引の弊風の打破に、どれ程の役割を果たしたか明らかではない。ただ、明治18年に、水産商、物産商、荷請負屋、仲買商の4組合が団結して、清国商人の横暴に対処したことが知られているだけである。 |
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