| 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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第6章 内外貿易港としての成長と展開 深刻な不況 |
深刻な不況 P673−P675 西南戦争後の紙幣増発によるインフレは、明治13年下半期に絶頂に達し、政府は、この年より不換紙幣の整理、経費の節減、増税政策を実施に移した。明治14年に大蔵卿に就任した松方正義は、これらの施策を継承して徹底したデフレ政策、いわゆる松方緊縮財政を推進し、日本銀行の創立や、兌換制度の確立をはかった。このため、明治14年から物価の下落がはじまり、ことに明治15年以降になると、物価は益々下落し、金融は閉塞し、北海道でいう、深刻な「三県期の不況」に見舞われた。昨年(明治十四年・編者注)ノ夏頃迄ハ諸物品ノ捌方至極宜敷カリシカ、同年秋頃ヨリ漸々ニ不景気ヲ来シ、本年(明治十五年・編者注)ノ一月已降ハ最モ不景気ヲ致シ、之ヲ昨年ノ売捌高ニ比較スレハ、日々ノ高ハ凡ソ三分ノ一ニ減セリ。此不捌タルヤ、第一ハ金融ノ必迫ニ因ルト雖トモ、近年、政府ノ御模様モ大ヒニ変リ、已前ハ専ラ西洋物ヲ御用ヒ、貴顕ノ方々モ衣服、飯食ニ至ル迄同様ノ有様ナリシカ、昨今ニ至テ本邦ノ製産物ヲ以テ之ニ充テラレンコトヲ務メラルルカ為メ、下人民モ其気向ニ習ヒ、絨氈ハ堺段通トナルカ如ク、百物如此ノ景勢トナリ…… また、第百十三国立銀行の頭取、杉浦嘉七および支配人、安浪次郎吉は、 昨年(明治十四年・編者注)ノ夏頃迄ハ諸物価漸々騰貴ノ勢ナルカ故ニ、商人モ無理ナ金融ヲ為シテモ当道ノ物産ヲ仕入、東京其他ヘ輸送スル時ハ多少ノ利益ヲ得サルモノナシ。故ニ出産人モ従テ資金ノ融通ヲ得、収獲ノ物品モ販売シ易ク、一般ノ景況モ活発ナリシカ、秋頃ヨリ何トナク不人気ノ姿トナリ、著ク価格ノ低落ヲ見サルモ、東京其他ヘノ輸送物品ハ多ク不捌ノ為メ、其荷主タル商家ノ金融従テ渋滞セリ。此ニ於テ各多少ノ損失ヲ見切、所持ノ物品ヲ売放スコトヲ歎スルノ景況ニ至リ、従テ売レハ従テ落チ、益低落ヲ告ケタリ。鯡〆粕ハ当道第一ノ産物ニシテ、昨年ノ春頃ハ百石ニ付百四五十円タリシカ、本年ハ五百円迄ニ低落セリ。然ルモ売人アリテ買人無キニ至リ、之ニ由テ当道ノ出産人一般ノ困難トナレリ。函館ハ当道出産人ノ景況ニ拠テ商家モ共ニ現ス所ニシテ、内地ノ盛衰ト形影ヲ異スルコト多シ。故ニ本年当地ノ不景気ハ右等ノ原因ト相察セラル。 表6−5により、不況下の函館の管外移出入についてみてみよう。 明治15年に移出275万円余、移入699万円、移出入総額974万円であった函館は、明治19年には、移出がその78.7パーセントの216万円余、移入が58.5パーセントの409万円余、移出入総額では、64.3パーセントの626万円で、この5年間に、6割5分に縮少してしまった。移出入数量がそれほどの変化がないことを思えば、この時期の物価の下落が、いかに激しかったかを知ることができよう。 この間の全道の移出入をみると、明治19年には、移出が60.1パーセントの500万円余、移入が46.7パーセントの562万円余、移出入総額が52.2パーセントで、明治15年の半分ちかくに縮少している。このため、明治15年に移出が33.0パーセント、移入が58.0パーセント、移出入総額が47.8パーセントであった函館の対全道比は、明治19年には、移出が43.3パーセント、移入が72.8パーセント、移出入総額が58.9パーセントを占めるにいたった。小樽、江差、福山、根室などの他港が軒なみ比重を低める中で、函館のみが比重を高め、全道の約6割を占め、その独占的地位を保持していた。明治15年に移出入総額で全道の約2割を占めるにいたっていた新興の小樽には、いまだ不況に耐えるだけの経済力がなく、また、その後背地である内陸部の開拓が休止してしまったことなどが、相対的に函館の比重を高めることに結果したのであろう。
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