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「函館市史」トップ(総目次)
第5章 近代港湾の生成と陸上交通の整備
第5節 函樽鉄道
1 着手までの経過
20年代の北海道の鉄道
北海道鉄道敷設法
敷設実現への課題
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函館港は、明治20年代すでに限界に達しており、それ以上の船舶需要に応ずるためには、当時遠浅の海岸だった海岸町、若松町を埋立て、ここに新しい港湾施設を新設する外はなかった。その施設は、益々大型化し機械化する蒸汽船の大量貨物、大量旅客輸送に耐える近代港湾でなければならなかった。函館港の場合、それは国鉄青函連絡船桟橋造成の強制という形をとる。その原動力は函樽鉄道である。
また北海道の内陸部拓殖の遂行にも札幌、小樽、函館を結ぶ鉄道の新設が必要であった。札幌は道庁、拓殖資金を一手に握る国家の代表の所在地、小樽は幌内炭、石狩炭田の積出港、函館は産業資本の群集する後方兵站基地である。この3都市の連絡は、それまで主として船舶および道路に頼っていた。函樽鉄道の実現は、誰しも至当とする所であった。
20年代の北海道の鉄道 P639−P640
明治14年創立請願の日本鉄道の株式募集以来、鉄道建設は狂熱的となり、その建設も民間資本を以って続々と行われた。北海道では、その鉄道および蒸汽船の燃料となる石炭の確保のため、幌内炭鉱を始め、石狩炭山の開発が急がれ、明治13年、手宮、札幌間に鉄道が敷設され、15年、幌内に達する幌内鉄道が開通する。北海道鉄道の始まりで同時に原燃料産地北海道開拓の本格化の象徴である。この鉄道敷設は明治11年、北海道開拓使により米国人技師のジョセフ・クロフォード指導の下に行われた。
その後明治21年4月、北海道庁は官営をやめ、翌22年11月創立の有限責任北海道炭礦鉄道会社に、幌内炭山、手宮、幌内間、幌内太、郁春別間鉄道およびその付属物件を35万2318円で払下げ、民営化した。北炭は22年12月、鉄道新線敷設を、室蘭線(室蘭、岩見沢間本線と夕張炭田支線)空知線(岩見沢、空知太間本線と空知炭田支線)にわけて開発計画を立て、23年5月、空知線から着手、美唄方面土工を起す。また、会社は、海陸連絡石炭積卸施設として、鉄道工事と併行して、手宮海岸の埋立及び室蘭桟橋の建設に着手した。
室蘭〜岩見沢間開通は25年8月、室蘭線の仮桟橋(長さ850フィート)が竣工、11月、追分、紅葉山、夕張間(26マイル)が開通した。北炭は26年11月1日、新商法により、社名を北海道炭礦鉄道株式会社と改称した。このように、当初の北海道の鉄道は、貨物運送のためのものであった。
しかし、北海道の鉄道建設は、北炭に任せてよい程のんびりしたものではなく、石炭の外に、内陸拓殖のために、官営鉄道建設が計画された。明治19年、初代北海道庁長官岩村通俊は、(1)岩見沢−上川、(2)岩見沢−室蘭、(3)函館−小樽の予定線の調査を行わせた。25年には長官渡辺千秋も「北海道中央鉄道敷設計画」を立てた。そして、26年に、新任の長官北垣国道が、井上馨内務大臣に「北海道開拓意見具申書」を出し鉄道建設の急務を訴える一方で、「北海道予定幹線略図」の作成も行っていた。この略図における、函館−小樽間の計画は、延長146マイルで、小樽・函館両港の桟橋も合わせて、工費800万円を見積もっていた。鉄道建設は民間も含みその後ますます関心が高まり、国会でも取り上げられるようになっていた。北海道庁内でも調査機関を設け、ついに28年7月に全道の鉄道調査を終えて、その調査書等を内務大臣に提出した。これによれば、函館−小樽間はその距離146余マイルの幹線として位置付けられていた。ところが、政府はこの計画のうち、わずか空知太−旭川の35マイルを認めただけで、あとは保留とした。ところが、29年2月の第9回帝国議会の衆議院予算委員会では、その建設費も削除された。
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