| 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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第5章 近代港湾の生成と陸上交通の整備 幕末期の埋立 |
幕末期の埋立 P562−P563 すでに『函館市史』通説編第1巻記載の通り、安政6(1859)年6月、箱館奉行は、開港に当たり、外国人居留地供給のため大町の海面2000坪の埋立に着手している。これから松川弁之助、佐藤広右衛門の地蔵町海面2万37坪余の海面埋築、山田寿兵衛、大津屋茂吉との5500坪(たて50間、横100間)埋立、島野市郎治の地蔵町1715坪埋築、杉浦嘉七の地蔵町海面2865坪の埋立、幕府による鶴岡町5190余坪の埋築、町会所の弁天岬台場から地蔵町に至る一帯の海岸の埋立(完成は明治維新後)が実現し、大工町地続き大森浜畑地2万坪の排水溝掘削、石垣設置、架橋および願乗寺川開削が完成している。港湾施設ではないが、その基礎を提供した弁天砲台も築造された。もう一つ見逃せないのは、『函館市史』通説編第1巻で記述されている堀割および築島である。享和元(1801)年蝦夷地取締御用松平忠明は、同役とはかり、内澗町に掘割を設け、その浜手の寄洲を埋立て造船所を設置する計画をたて、官民共同で、まず海汀から南へ70間、「土出し堤」も北へ向け沖出し幅数間、長さ120間を築設した。これは港湾施設のうちの係留施設を人工的に創造したことを意味する。係留施設は、堀割作成および海岸から海中に突出す長い桟橋造成から始まる。のちに海岸埋立によって、場所および岸壁を人工的に作り出すことになる。 |
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