| 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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第4章 都市形成とその構造 財政の推移から見た都市整備 |
財政の推移から見た都市整備 P554−P557 函館の都市整備は第3節で述べたとおり、北海道における行政府の変更とともにその主体も変わってきた。そのことは北海道経営の姿勢の変更が、函館への財政投下にも違いが生まれることをも意味していた。つまり北海道経営における函館の位置づけが、財政投下に現れ、函館区の財政運用を規定することにもなる。その原因は当時の自治制と関連して、函館区の財源だけでは、都市整備ができるような財政事情ではなかったことがまず考えられる。開拓使時代は、明治11、12年の大火後の街区改正や谷地頭埋立が行われ、3県時代には街区改正の計画に含まれていた道路改正工事が、この時点で施行され、北海道庁期に入ると亀田川切替工事、願乗寺川埋立工事、下水工事の一部などが施行された。このことは、函館の都市整備が明治20年代の初期頃まで、北海道経営の中で財政投下の対象地として容認されていたことを物語っていよう。明治18年の「北海道三県巡視復命書」においても「函館、小樽、室蘭、森等ノ港ハ、多少波止場ヲ改築シ、港内ヲ測量セシム」とあるように、函館を第一港と認め道央道南が港湾整備の面で重視されていたことが理解できる。 これに対し明治20年に入り、北垣北海道長官の開拓意見は鉄道を最大急務とし、同時に港湾を修築し、鉄道と港湾の結合を北海道の基本的な運輸体制としており、図4−19の港湾整備予算を計画した。この図からもあきらかなように北海道開拓の主眼は道北道東部にあり、本州との接合場所を小樽に求めている点が理解できる。この点は鉄道の計画からみても同様の傾向が知れる。そしてこの傾向は明治30年代に入ると顕著で、明治32年の「北海道十年計画実施成績要領」によれば小樽港は、「本道西部ニ於ケル饒多ナル水産物集散ノ要衝ニ当リ、石狩大沃野ノ咽喉ヲ扼シ、貨物ノ出入、船舶ノ輻輳函館港ト相拮抗シ、内陸拓地殖民ノ進歩ト共ニ、益々発達スベキ運命ヲ有ス。」(『新撰北海道史』史料2)という北海道経営における拠点としての位置づけを、保有することになった。この函館、小樽の港湾都市としての位置づけの変化は、改良工事の財政投下の違いにもあらわれた。つまり函館については同工事の補助として20万円交付されたのに対し、小樽は工事費として220万余円の財政投下がなされたのである。
このように、函館における明治期の都市整備は、財政運用の難しさはあったにしろ北海道内においてばかりでなく、かなりの先進性を容認しても良いのではないかと思われる。それは財政難の原因ともなる公債による事業の展開を、マイナスの視点だけでとらえるのではなく、都市整備に対する積極性が函館の「場」の優位性を大きく喪失することを防いだ、とも考えられるのである。またこのような函館の地域の独自性とも思える都市形成については、単に公の財政面からだけの説明を越えていることもまたあきらかなのである。 |
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