| 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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第4章 都市形成とその構造 清掃規則の変遷 |
清掃規則の変遷 P541−P542 生活環境の整備は、上水道敷設のように家屋の中にプラスとして取り入れられるものと、塵芥のようにマイナスとして廃棄される2面性から把握する必要がある。そのために、ここでは生活廃棄物を通して当時の生活環境がどのような体制で維持されていたのか、布達などを通して考えてみることにする。当時の生活廃棄物は現在のように施設を利用して処理されていたのではなく、直接的に廃棄場所に処分されていたのであった。そのため当時の生活環境の面で問題になるのは、町の清掃についてであった。国の段階でも清掃の目的は「市街、道路、溝渠、便所、下水、肥溜等を掃除し、その修繕、改良の方法を講じさせること」(『内務省史』)と明確化している。これと関連して函館においても次のような市街掃除規則が明治12年2月20日に布達されている。 市街掃除規則 これらを受けて函館区では明治28年度臨時区会にて、北海道庁の訓令により設置された函館衛生会の答申書を受理したうえで、清潔法施行費支出を決議していた。当費は前年度の残額より支出しており通常の計上費には至っていないことが理解できる。また、先の衛生会の答申書の中には「函館区内各市街ニ清潔法施行スルニ際シ、充分ノ目的ヲ達セントスルニハ、下水溝渠糞地ノ改良等公衆衛生上ノ大工事ヲ完成スルノ暁ニ非ザレハ、純然タル消毒的清潔法ハ得テ望ム可ラザルナリ」と理想像を述べているが、現実的対応として提示したものは、一時的な清掃と消毒だけによる施行であった(明治27年〜36年「決議書綴」)。しかも、この予算化すら次年度までの区会史料から知ることができるのみである。 次に明治33年3月に内務省において汚物掃除法を制定し、汚物の処理を市の義務として清掃の徹底を図ることになった(『内務省史』)。これに関連して函館区においては、明治34年9月に「汚物掃除規程」が決議された。これによると(1)掃除義務者の汚物の収集を3日に1回行うこと、(2)公衆便所の掃除汲取を毎日行うこと、(3)公共溝渠の汚泥浚渫を年に2回行うこと、(4)掃除区を5地区に分けること、(5)掃除は区が直接施行するか請負人が施行する場合もあること、(6)掃除は事務吏員が監視すること、などが決められた。この時期は予算項目のうえでも整理され、明治33年度においてそれまで土木費であった塵捨場費、市街便所費などが衛生費に変更され、道路下水掃除費が新たに同費の中に計上された。また次年度より汚物掃除費が新たな項目で予算計上された(明治27年〜36年「決議書綴」)。 このようにこの時期は清掃により生活環境を守る段階であり、上位からの達しにおいてもその点の指導の域を越えるものではなかった。そのためか、函館においては上水道の敷設によりたしかにコレラ患者については減少したのであるが、その他の伝染病については人口増加を考慮しても患者数は増加しているのが現状であった。この点について明治35年10月22日の「函館公論」は「区衛生と水道」という小見出しの中で、このような統計数値を掲載しこの実態を留意する必要性を説き、「下水改良等の工事と厳重に取締法を設けられたき」と論評した。つまり上水道敷設による都市整備は、人口増加による生活廃棄物の増加をもたらし、これらの処理の未成熟による生活環境の悪化が指摘でき、新たな伝染病患者を生む要因となったとも考えられるのである。 |
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