| 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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第4章 都市形成とその構造 開港以前の様相 |
都市とは、人口集積、経済力、生活環境の利便性、そしてこれらのもたらす情報を保有する空間といえよう。本章では、この都市空間そのものを対象としており幕末より明治40年大火以前頃までの都市形成を説明する。具体的には、都市基盤の整備を中心に記述し、それによる都市空間の拡大がもたらす都市形態の変化にも留意している。また、機能的な都市空間全体を「場」と表わし、それがどのような構造によっているかをイメージ化することも試みている。しかし、「場」を構成する生活空間や、劇場などにみる社会的空間についてはほとんどふれていないし、民家および町並などに視点をおく都市景観史的なアプローチも不十分であり、今後の課題となるだろう。
開港以前の様相 P460−P462 函館は開港というインパクトによって幕府の政策が直接的に反映する地域となった。そのため当時の都市形成は、外国人居留地に代表されるように外交問題の処理の具現化を反映していよう。そして、このことが、市中にも大きな影響を与えることになる。このような外国人居留地と市街の様態の連関を通してこの時期の都市形成を考えることにする。函館における近代的な都市形成は、明治期に入って進展するが、都市としての位置づけはすでに開港というインパクトによって具備されることになる。さらに町の形成という点では、幕府の前直轄時代以前にもさかのぼることができよう。 前直轄時代の市中には名主が9人置かれており、それぞれ地蔵町、山ノ上町、大町、弁天町、大黒町、内澗町、仲町、神明町、 そして、これらの町の職業構成は、弁天町、大町、内澗町などは場所請負人、問屋、小宿などを業種とする有力商人が住んでおり、裏店には小商人や私娼がみられ、その他は小商人、職人などの借家住まいの者が多く住んでいた(「初航蝦夷日誌(抄)」『函館市史』史料編第1巻)。特に山ノ上町は、享和3(1802)年には茶屋営業が始められており、文化年間には大石忠次郎の開墾により徐々に山側へ町域が拡大されていた(文政5年4月「箱館申送書」『函館市史』史料編第1巻)。 これらの職業の違いを反映してか、当時の土地所有における坪割銭によれば内澗町、弁天町、大町が1か年地面1坪につき10文で、大黒町、山ノ上町が6文、その他が4文との違いが認められる。その他、八幡宮の祭礼銭においても「不足高ハ見聞割ヲ以テ町内ヘ割賦徴収スルナリ。但表通ノ商家ニ限リ、裏町ニ及ボサズ」(前掲「維新前町村制度考」)とあるように表と裏通りの差がかなりあった。さらに表4−1の当時の市中租税より、いくらかでも町の様子をかい間見ることができる。つまり、店役および家役から大町、弁天町が特に高い比率を占め、土地生産性が高いことがわかるし、人別銭での比率は文化5(1808)年の人口比率とほとんど同じであることから人口の相対数を類推することもできる。 次に文政期の「箱館市中細絵図」から町の様子の変化が知れよう。文化元(1804)年の函館八幡宮の会所町移転によるものか、山側部分に屋敷割の広がりがあった。また海面には「箱館地蔵町ノ沖ヘ新規築立候地面二千百七十二坪、〈中略〉高田屋嘉兵衛寄洲ノ場所見立願ノ上、新規自分入用ヲ以テ築出シ〈後略〉」(前掲「箱館申送書」)に符合するように埋立地がみられた。この背後には高田屋金兵衛の拝借地があり、その間の地蔵町裏通りにも町並みが形成されるようになった。大工町の戸数がわかるのも文化11(1814)年からであり、市街の拡がりを認められよう(「北海道温古雑識」)。さらに、前直轄時代の函館の都市機能として重要な沖の口役所が大町より弁天町へ移転した。跡地は御作事場となり「箱館夜話草」(『函館市史』史料編第1巻)の中にも「御作事所この処は文化の頃までは沖の口御番所にてありし」とありこのことを裏付けている。 しかし、嘉永5年(1852)の「箱館市中細絵図面」においてはほとんど前図と同様であり、開港以前の市街地は前直轄時に形成され、その後の松前藩復領期にはほとんど変化がなかったことが理解できる。
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