| 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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第2章 開拓使の設置と函館の町政 山本忠礼の民会開設論 |
山本忠礼の民会開設論 P376−P379 明治13年4月8日、政府は郡区町村編制法の追加、府県会規則の改正を布告し、同時に区町村会法(太政官布告第18号)を布告した。この区町村会は、前述の3新法執行順序(太政官番外達)第4項で「三府及其他市街ノ区及各町村ハ、地方ノ便宜ニ従テ町村会議又ハ区会議ヲ開キ、及ヒ地方税ノ外人民協議ノ費用ハ地価割戸数割又ハ小間割間口割歩合金等其他慣習ノ旧法ヲ用ユルコト勝手タル可シ」と、その開設が認められた区町村会の開設基準を示したものであった。函館市民は、この区町村会法の制定を知った時点で、区会開設に向かって具体的な運動を開始する。函館では総代人が「金穀公借共有物取扱土木起功規則」に則って町政に参与していたが、本務の金穀公借共有物取扱土木起功よりも、人民の利害に関する事項で集会協議する機会が増大していた。しかし総代人の集会は決議事項施行に対する権限を持たず、会議規則もなく、会議記録が公表されることもなかったため、函館市民は総代人制の限界を意識しはじめ、12年には総代人の会議中でこの問題が討議され、町区の公共に関する事件及び其経費に対する議決権を持つ区会(町会を含めて)開設を出願しようという気運が高まっていた。しかし、その年の12月、堀江町からの出火による大火災で一時頓挫を余儀なくされた。一方この時期、国会開設請願運動の頂点期を迎えようとしていた自由民権運動の波は、函館にも押し寄せてきていた。この中にあって当時の函館の言論界の代表的存在であった山本忠礼は、函館新聞紙上で3回に亘って民会開設論を展開した。彼は愛媛県出身で、明治9年11月に司法省職員(14等出仕)として函館裁判所に赴任、11年3月、26才で裁判所を退職、そのまま函館で訴訟代言人となり、次いで同年7月には代言人組織「一諾舎」を興し舎長なり、度々開催された演説会に、弁士として登壇し、函館の言論界をリード、13年3月からは「北溟社」(函館新聞発行社)の社長となったいた人物である。彼の論説は、総代人らの区会開設請願に当って起爆剤的な役割をはたしたのである。
次いで、5月21日から10日間、郡区町村制になって初めての郡区長の会議が函館支庁において開催されることになったことをうけて、5月23、26、29日の3回にわたって「郡区長の集会」を掲載、まず郡区長設置の効用を挙げ、しかしまだ人民は政治上の思想に乏しく「公利公益」を理解できないものがほとんどであるので、「官民ガ琴瑟ノ調和ヲ政事上ニ表章セシメテ、従来ノ不和ヲ除去スルノ良策ハ、町村郡区会ヲ開設ニ存ル可キヲ信ズ」と、郡区長及び地方官からの町村郡区会の開設提案を希望する旨の論説を行い、公共事業の円滑な推進は、事業決定段階での官民の充分な協議がその原動力となると、郡区長の集会で町村郡区会の開設提案がなされることを強く要望すると結んだのである。 しかし、函館支庁に集会した郡区長は民開会設について何らの提案をすることもなく集会を終えてしまった。郡区長に失望した忠礼は、6月23日から29日まで4回連載の「北海道民会論」を掲載、民会開設を阻害する要因を挙げてこれを論破する形で、徹底した民会開設論を展開した。忠礼が挙げた阻害要因は次の3点であった。 (1)北海道は未開で、民は頑愚で民会を開設するまでに至っていないという考え方。 |
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