| 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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第2章 開拓使の設置と函館の町政 町会所蓄積金 |
町会所蓄積金 P355−P357 町会所には町会所が管理運用していた町会所蓄積金と呼ばれる市民共有の財産があった。その起源は詳らかでないが、江戸時代に「与内銭」と呼ばれていたものが起源のようである。この与内銭というのは「維新前町村制度考」(『函館市史』史料編2)によれば「寛政十二(一八〇〇)年九月ノ町役所触書中ニ、与内金・四半敷(役銭)ハ是迄ノ通上納可致トアリ」とあるので、19世紀初頭幕府が蝦夷地の直轄を開始し箱館を拠点としたときにはすでにその存在が認められる。また同書には古老談として「往時東蝦夷地請負人ヨリ運上金高ノ二歩方ヲ取立、之ヲ与内ト称シ、町役所ニテ管守ス」とあり、場所請負人の運上金に2パーセント上乗せしたのが与内銭で、この金の主な支出項目は市民共有の準備米で、そのほか道路橋梁の修繕費用、坪割銭への補給などにも用いられ、天保年間に函館で収納された与内銭の額は1か年約90両であったという。与内という言葉の意味は、『広辞苑』では「与内・余荷 江戸時代、俳優などが特に請求した給料の割増」という特殊な説明が付けられているが、通常部分にプラスするもの、つまり割増ということが本来の意味で、与内銭というのは場所請負人から運上金に上乗せして取り立てた金銭ということで付けられた名称であろう。また準備米の備蓄法は、その年の新米をこの金で購入貯蔵し、翌年の漁期に場所請負人の請負地にこの米を回漕し、請負人が新しく購入した新米を備蓄することを繰り返してきたと伝えられており、与内銭と場所請負人は密接なつながりを持っていたようである。この与内銭が次第に蓄積されて町会所蓄積金となっていったのである。この町会所蓄積金は、明治元年頃には7320円余になっており、明治に入って場所請負人が廃止されると、地券売買の際買主より5分を積み立てさせて蓄積額を増やし、さらにこの蓄積金を貸し付けて増殖を図っていた(明治14年函館通常区会第3号議案「函館区共有金収支予算調説明書」『桜庭為四郎文書』道文蔵)という。この町会所積立金に関して、明治8年6月から明治10年10月までの「町会所予備基本金出納月表」(道立文書館蔵)というのが残されている。町会所予備基本金というのは町会所蓄積金の大きな部分を占めることは間違いないと思われるので参考として掲げておく(表2−40)。町会所予備基本金は現金が100円を越えると市中の商人へ貸し付けられて増殖が図られている。この月表は毎月主任戸長と出納担当副戸長が署名捺印の上、開拓使函館支庁民事課へ提出、承認を受けていた書類で、明治8年中は主任戸長は伊藤重兵衛、副が白鳥衡平、明治9年から翌10年は主任戸長が白鳥衡平、副は井口嘉八郎、出納担当副戸長は一貫して小島又次郎である。 この町会所蓄積金のほかに町会所には備蓄米が存在した。この備蓄米は明治3年7月に海岸埋め立て事業で出た差金(築立費用と土地払下代の差額)で市中非常救助予備米として購入された1000石で、蔵前通の蔵所構内の板蔵に貯蔵され、町会所が備蓄管理を担当していた。しかし明治7年9月にこの蔵所の地所の払下げが決定、板蔵は取り壊されることになったため、町会所は函館支庁の指示のもと高砂町に町会所蓄積金で板蔵を建設、予備米を移した。板蔵建設費は753円余で、予備基本金から400円、南新町地賃から353円余を支出した。この時無代価払下の含みを持った達書も出されたが、同9年4月、官費購入米であるので官民共有米と心得るように、さらにこの米の出納調査だけは函館支庁会計課が担当する旨の達(「区入費評議留」道文蔵)があった。このほか町会所は町会所持ちの共有地を所有し、地代金家賃が蓄積されていた。つまり町会所蓄積金(穀)の主な構成要素は町会所予備基本金、市中非常救助予備米、共有地の借地借家料のようである。
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