| 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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第2章 開拓使の設置と函館の町政 町年寄・名主の廃止 |
町年寄・名主の廃止 P309−P312 江戸時代以来箱館の町政を担当してきたのは町会所である。この町会所は、幕府による前直轄時代が始まる頃にはもうその存在が確認されている(「維新前町村制度考」『函館市史』史料2)が、安政元年に幕府による再直轄が始まる以前については、「町会所」とその名称を特定することは難しい。しかし再直轄直後からは幕府が触書を以って名称の整理していたことが確認できる。つまり安政2年1月26日に出された「町年寄名主詰所ノ義、私領中町役所ニ唱来候得共、以来町会所ト唱可申候」(嘉永7年甲寅よりB慶応丙寅12月迄「御触書写」『地域史研究はこだて』第9号)という触書がそれで、松前藩治世中「町役所」と呼んでいたものを「町会所」とする旨が明記されており、それ以後の触書では全て町会所名が用られている。安政期から明治12(1879)年7月の函館区役所誕生まで、この名称で町政を担当していたわけである。町会所の構成員である町年寄、名主、町代の町役人は、箱館奉行から箱館府へ組織、機能ともそのまま引継がれ、町会所に町年寄、名主が詰め、町代が各町の願伺届等を取りまとめ、各戸は5人組を作り相互扶助という図式は、旧幕のまま踏襲されたのである。その後箱館戦争が勃発したが、旧幕府脱走軍も当然のごとく町会所機能をそのまま踏襲し、戦争終結直後の明治2年5月19日、箱館府は「今日より改テ市在役人可申付ノ処旧来ノ通ニテ精々其役々相勤可申付事」(山越内村帳場「触書留」)という触書を出して、旧来通り市在役人を再任する旨の確認を行っている。 次いで箱館府から業務を引継ぎ、9月30日に函館に開拓使出張所を開設、翌10月から業務の本格始動を開始した開拓使は、町政の運営にも関心を示し、まず11月、旧幕府が町年寄や用達等に与えてきた苗字帯刀諸役免除等の特権を廃止し (佐藤家文書「箱館出張御用留下扣」『松前町史』資料編3) 、次いで11月6日、「当所町役人共公選入札を以可被仰付候ニ付、市中一同左ノ役員可然直実ニテ世話向行届ものを惣入札を以可申出事」 (前掲 佐藤家文書「箱館出張御用留下扣」) という触書を出し、町役人の人選に公選入札を取り入れようとした。この公選入札については、入札結果の公表がなされた痕跡がなく、またその直後に行われた町役人の任命でも民意の反映を裏付けることができなかったので、現段階では実際に行われたかどうかは疑問である。さらに、その後の町役人の交代に際しても、公選とか入札とかいう方法が用いられたという記録はなく、明治13年に戸長役場が設置され、戸長が選挙で決められた時、函館新聞は初の快挙と賞賛記事を掲載しているが、過去に町役人を決める際、公選入札が用いられたということは全くふれられていない。 この触書が出された20日後の11月27日、町年寄と名主を廃止し、そのまま大年寄、中年寄とした。地方制度は、明治4年の廃藩置県までほとんど手を付けられなかったが、函館では、政府が明治2年6月に各府県へ頒布した京都府の市中戸籍仕法書、町役可心得条々等(京都府は3月制定)に範を取って、町役人の名称を大年寄、中年寄としたのである。罷免となった町年寄は金沢屋(松代)伊兵衛、小林屋(小林)重吉、紀国屋(伊藤)重兵衛の3人、名主は池田屋(平田)新左衛門、小島屋(小島)又次郎、中村屋(中村)兵右衛門、山形屋(矢本)直十郎、新井田屋(新田)孫右衛門、酒屋(工藤)弥兵衛、木下屋(木下)忠右衛門の7人だった(「御書付留」道文蔵)。 なおこの変更は函館市中のみで、町代はそのまま存続し、付近の村々の名主、百姓代等の村役人には手が付けられなかった。町年寄は廃止のときは3名体制だったが、幕末期も3名体制であったようで、箱館奉行組頭から外国奉行に進み箱館奉行も兼務した栗本鯤(鋤雲)の回想録「匏庵遺稿」(『函館市史』史料2)にも「町年寄は旧家にて甚だ富まずと雖も市政に権あり」として、西村次兵衛、蛯子砥平、白鳥今右衛門の3名が挙げられている。また名主は、各町配置を基本に幕末期5名体制で推移してきたようであるが、廃止時直前6名から7名体制に増員されている。安政期以降の町年寄、名主は、全員の就退任は確認できなかったが表(表2−18・19)にしておく。
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