| 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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第1章 維新政権成立期の胎動 旧幕府軍艦隊品川沖から脱走 |
旧幕府軍艦隊品川沖から脱走 P229−P231 明治元年8月19日夜11時、旧幕府海軍副総裁榎本釜次郎率いる旧幕府海軍の開陽、回天、蟠龍、千代田形、神速、長鯨、咸臨、三嘉保の8艦が品川湾を東北に向け脱走した。元若年寄永井玄蕃、元陸軍奉行松平太郎、渋沢誠一郎率いる彰義隊の残党、伊庭八郎率いる遊撃隊、フランス軍事顧問団を脱走した砲兵大尉ブリュネ、伍長カズヌーヴなど2000人余が乗り組んでいた。新政府と軍艦を折半して品川沖にあった榎本は、5月3日に朝敵目標藩に位置付けられた会津藩の救済援護と、反討幕派の軍事同盟として成立していた奥羽越列藩同盟(特に盟主といえる仙台藩)から、再三にわたって助力を要請されており、7月21日には次のような決意表明を送っており、奥羽越列藩同盟援助へ向けてようやく動きだしたのである。 (前略)主家成行ノ段見届ル後ナラテハ、臣子ノ職掌如何ト決心仕居候処、前月既ニ封邑モ相定候ヨリ、直ニ移封ノ手立ニ取掛リ、当月ニハ寡君亀之助始隨従ノ家来共、駿府表迄軍船或ハ運送船ニテ護送イタシ終リ、此一段後、遅クモ来月廿日頃迄ニハ、野拙自儘諸船ヲ引率シテ仙台迄罷越、同所ニテ奥羽ヲ防禦進撃ノ相談仕、夫ヨリ所々ヘ相廻リ可申候間、左様御承知可被下候、尚書外委細ノ儀ハ、雑賀子(雑賀孫六郎重村のこと)拝謁ノ上可奏申上(以下略) 一行は途中銚子岬沖で台風に遭い、「大小砲、弾薬、器械を夥しく積」(「三嘉保丸の難破談」『旧幕府』)み、軍資金も積まれていたと伝えられる輸送船三嘉保(房総沖で座礁破壊)と咸臨(台風に流されて清水港に入っていたところを新政府軍に拿捕)を失ったが、艦隊は8月26日頃相前後して松島湾の東名、松島に入港した。榎本らは仙台で奥羽越列藩同盟の会議に参画した。しかしこの時はすでに同盟は弱体な結束力を露呈し始めており、9月15日には同盟の中核仙台藩が降伏を表明、会津藩は落城寸前(9月22日降伏)、庄内藩(9月23日降伏)、南部藩(9月24日降伏)も降伏することになり奥羽の同盟は瓦解し、旧幕府脱走海軍を受け入れるところは、東北地方にはなくなっていた。 そこでやむなく、北関東、東北と各地を転戦して仙台に来ていた大鳥圭介(伝習隊)、土方歳三(新選組)、人見勝太郎(遊撃隊)、古屋佐久左衛門(衝鋒隊)らと仙台から加わった仙台藩の星恂太郎(額兵隊)と共に蝦夷地へ向かうことに決し、「蝦夷地の徳川家永久御預」を嘆願する趣意書を新政府軍の平潟口総督へ提出、10月9日、東名浜を出帆した。10月13日薪水積入れのため南部宮古港に寄港、10月18日開陽、蟠龍、神速、回天、長鯨、大江、鳳凰、回春の8艦(大江以下の3艦は仙台から参加の艦で、千代田形は庄内応援に回り、11月12日箱館に回港)に3000人余が乗り込み、蝦夷地へ向かった。この時の脱走陸軍の艦隊乗組状況を示すと表1−7の通りである。 北上する船中での軍議で、「敵ト対陣セシ時、番兵眠ルニ於テハ銃火ヲ以テ死罪タルベシ、階級ニヨラズ武官逃ルトキハ、同様死罪ナルベシ、民家乱妨ハ死罪ノ事、敵ノ首級不及取事」(「北州新話」『旧幕府』)など9か条軍律が決められ、蝦夷地を掌握する際には武力行使をも辞さないとの決意が示された。
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