通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ


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第1章 維新政権成立期の胎動
第2節  箱館戦争
1 旧幕府脱走軍の誕生

江戸城引渡交渉

旧幕府海陸軍の脱走

徳川宗家の処遇

江戸城引渡交渉   P221−P224

 鳥羽伏見の戦いの敗北を見て、大坂城から旧幕府海軍の旗艦開陽で江戸へ逃げ帰った前将軍徳川慶喜には、追い討ちをかけるように「麾下ノ者ヲ引率シ剰前々御暇被遣候会桑(会津及び桑名藩)等ヲ先鋒トシ闕下(皇城の地)ヲ奉犯」(「春嶽私記」『復古記』)を咎める慶喜追討令(明治元年1月7日)が出された。しかし彼は、越前の松平慶永と尾張の徳川慶勝を通じて朝廷との和平策を模索、鳥羽伏見の戦いの関係者には免職、謹慎を命じた。さらに老中を中心とした旧幕閣(表1−5)の改編にも手を付け、総裁制(表1−6)を敷き実権を老中から総裁の手に移し、穏便収拾派の大久保一翁、勝海舟などを登用、明治元(1868)年2月12日には松平慶永の忠言を受け入れ、自らも江戸城を出て上野寛永寺大慈院で謹慎した。このため大坂城から慶喜と行動を共にし、主戦論を展開していた元京都守護職の会津藩主松平容保、最後の京都所司代で容保の実弟である桑名藩主松平定敬、元老中の備中松山藩主板倉勝静らは江戸を去ることとなり、江戸城中は恭順論が大勢となっていった。
表1−5 幕末徳川幕府主要役職一覧表
任期
老中
K1.10.22〜K4.1.29
K1.11.10〜K4.2.5
K2.4.13〜K4.2.21
K2.6.19〜K4.2.5 格
K2.11.9〜K4.2.10
K2.12.16〜K4.2.3 格
K3.12.15〜K4.2.9 格
K3.12.30〜K4.2.5
K4.1.10〜K4.2.5 格
板倉伊賀守勝静
松平周防守康直
稲葉美濃守正邦
大給縫殿頭乗謨
小笠原壱岐守長行
稲葉兵部大輔正巳
大河内豊前守正質
酒井雅楽頭忠惇
立花出雲守種恭
任期
若年寄
K2.1.7〜K4.2.14
K3.1.19〜K4.2.
K3.1.19〜K4.2.19
K3.6.24〜K4.2.6
K3.7.5〜K4.2.6
K3.12.5〜K4.2.
K3.12.15〜K4.2.9
K4.1.23〜 −
K4.1.23〜K4.2.9
K4.1.23〜 −
K4.2.8〜 −
K4.2.12〜 −
K4.1.25〜K4.4.6
K4.1.26〜K4.3.3
K4.1.29〜 −
K4.3.5〜K4.3.25
京極主膳正高富
大関肥後守増裕
石川若狭守総管
永井肥前守尚服
松平左衛門尉近説
堀内蔵頭直虎
永井玄蕃頭尚志
浅野美作守氏祐
平山図書頭敬忠
川勝備後守広運
大久保越中守忠寛
服部筑前守常純
今川刑部大輔範敍
跡部遠江守良弼
河津伊一守祐邦
向山隼人正一履
任期
京都守護職
G1.4.7〜K3.12.9 松平肥後守容保
任期
京都所司代
G1.4.11〜K3.12.9 松平越中守定敬
任期
外国奉行
K2.8.27〜K4.2.6
K2.10.15〜K4.3.5
K3.6.29〜K4.2.17
K3.7.6〜K4.1.15
K3.10.29〜K4.2.11
K4.1.11〜K4.1.28
川勝備後守広運
向山隼人正一履
石川河内守
菊池丹後守隆吉
平岡和泉守準
成島大隅守惟弘
任期
陸軍奉行
K2.8.8〜K4.3.1
K3.4.7〜K4.1.23
K3.10.26〜K4.2.9
K4.2.26〜 − 並
富永相模守
浅野美作守氏祐
竹中丹後守重固
松平太郎
任期
歩兵奉行
K2.8.8〜K4.3.1 並
K3.10.23〜K4.2.9
K3.10.23〜K4.3.6 並
K3.12.12〜K4.2.19 並
K3.12.〜 − 並
K3.12.〜K4.2.9 並
K3.12.〜 − 並
K3.12.〜 − 並
K4.2.28〜 −
K4.ウ4.5〜 −
富永相模守
小出播磨守英道
向井伊豆守
城和泉守
佐久間近江守
牧野土佐守
横田伊豆守
徳山出羽守
大鳥圭介
井上八郎
任期
海軍奉行
K1.7.8〜K4.1.23
K3.12.2〜K4.1.23
大関肥後守忠裕
京極主膳正高富
任期
軍艦奉行
K2.5.28〜K4.1.28
K3.6.25〜K4.2.18
K3.10.14〜K4.2.19
勝安房守安芳
木村兵庫頭嘉毅
赤松播磨守範静
『読史備要』、『明治維新人名辞典』より作成
注 Kは慶応、Gは元治、格は老中格、並は各奉行並のことである。
表1−6 徳川家の職制改革表(明治元年1月23日)
 
総裁
副総裁
陸軍 勝安房守(安芳)[海舟] 藤沢志摩守(次謙)[梅南]
海軍 矢田掘讃岐守(鴻)[景蔵] 榎本和泉守(武揚)[釜次郎・梁川]
会計 大久保越中守(忠覚)[一翁] 成島大隅守(惟弘)[柳北]
外国 山口駿河守(直毅) 河津伊豆守(祐邦)[三郎太郎]
大野虎雄『沼津兵学校と其人材』より作成
 新政府軍による江戸総攻撃開始を明日に控えた3月14日、新政府の東征軍(大総督は有栖川宮熾仁親王)参謀として江戸に入った西郷隆盛と勝海舟が三田の薩摩藩邸で会見、徳川家の降伏条件について話し合いがなされた。西郷は、勝の嘆願条件の検討を約束し、とりあえず江戸総攻撃の中止を指示した。この決定には、横浜での貿易の維持と治安の確保を第一に考えていた外国公使団、特にこの時期公使団を主導する存在となっていたイギリス公使パークスの意向が強く働いていた。パークスは鳥羽伏見の戦い以降の天皇側と大君(将軍)側との戦闘を内乱と捉え、フランス、イタリア、プロシア、オランダ、アメリカ合衆国と共に自国民に対して局外中立を布告(1月25日)していたが、慶喜を過酷に処分すれば内乱が長引くことになるとの考えから、慶喜に対する処分を寛大にするよう新政府側に要請していたのである。
 勝の嘆願を検討した新政府は、徳川家処分方針を決定、4月4日、東海道先鋒総督橋本実梁、同副総督柳原前光が勅使として江戸城に乗り込んだ。西郷をはじめ、海江田武次、木梨精一郎、安場一平保和ら東征軍参謀が付き従った。勅使が、江戸城を預かる田安中納言慶頼に示した沙汰書(6日に田安慶頼が請書提出)は、次の5か条から成っており、実行期限については、4月11日とする旨口頭で伝えられた。

第一箇条 慶喜去十二月以来奉欺天朝、剰へ兵力ヲ以犯皇都、連日錦旗ニ発砲シ、重罪タルニ依、為追討官軍被差向候処、段々真実恭順謹慎ノ意ヲ表シ、謝罪申出候ニ付テハ、祖宗以来二百余年治国ノ功業不少、殊ニ水戸贈大納言積年勤王ノ志業不浅、旁以格別深厚ノ思召被為在、左ノ条件実行相立候上ハ被処寛典、徳川家名被立下、慶喜死罪一等被宥ノ間、水戸表へ退キ、謹慎可罷在ノ事(新政府当初案では慶喜を備前岡山藩預けとなっていた。)
第二箇条 城明渡シ尾張藩へ可相渡ノ事(勝は江戸城を田安慶頼預かりとすることを嘆願していた。)
第三箇条 軍艦銃砲引渡可申、追テ相当可被差返事(当初案には追て以下の付帯条件はない。)
第四箇条 城内住居ノ家臣共、城外へ引退キ謹慎可罷在事
第五箇条 慶喜叛謀相助候者重罪タルニ依、可被処厳刑ノ処、格別ノ寛典ヲ以死一等可被宥ノ間、相当ノ所置致シ可言上事
 但万石以上ハ以朝裁御所置被為在ノ事        (「太政官日誌」『維新日誌』、石井孝『戊辰戦争論』)

 勝海舟の嘆願が旧幕府海陸軍の総意を受けたものでなかったこともあって、この処置に対して旧幕府海陸軍内部に大きな不満が渦巻いた。このため、勝と大久保は「主人慶喜ノ趣意ニ相背」くことにはなるが「海陸両軍臣子ノ節操相立不申」という海陸軍一同の次のような内容の嘆願書(「太政官日誌」『復古記』)を東征軍参謀に提出することとなった。
(1)江戸城は徳川家の相続者決定まで一時田安亀之助(田安慶頼の子)預かりとして欲しい、勝手ないい分で恐れ入るが、尾張家への相続だけはお許しいただきたい(尾張藩は大政奉還後の行動から徳川一門の裏切り者と目されていた)。
(2)軍艦鉄砲の引渡しは、徳川の家名が立てられることが決定したので、石高と領地決定後それに相応しい量を残し、余りを悉く提出することとしたい。 
 この嘆願書を受け取った海江田武次、木梨精一郎の両参謀は、沙汰書の内容変更は出来ないと回答したが、旧幕臣の反発が最も大きかった城と兵器の受け取りは形式的なものとすることとした。
 4月11日、先の両参謀が受け取りの使者となって江戸城引渡式は無事終了、慶喜は、この日の未明、山岡鉄舟、中条金之助以下の精鋭隊に護衛され水戸(一橋家から将軍職を継いだ慶喜は先の水戸藩主徳川斉昭の子息)に向かった。
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