| 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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序章 世界の中の箱館開港 「筥 |
箱館奉行の産業開発は、「土地御開拓」を中心とするものであったが「広く物産取開、往々百物百工とも致兼備、他国輸入品而已を不レ頼人民生活為レ致度見込」=本州方面からの移入品に頼らないで生活できるよう、必要な諸産業を多くの分野について興して行くこと、を目標にする面と、「精々御国益」を求めて行く(そのために、地域の条件にあわせて「取捨勘弁」する)面とを持っていた(前出「書類」)。従って、自立、自給の経済構造をめざして農業開発のみならず、多様な分野での開発が試みられ、しかし「御国益」の面での成果は、容易に得られる筈のものではなく、多く試行的な意味での成果にとどまったのである。 「筥 在住という士分のものたちに知行地を給与して、蝦夷地に土着させることで「開拓」を促進するという方策の提示であったが、あわせて、幕閣も入れかわり、蝦夷地経営の方針、経営上の経過なども心得のない人材が多くなったので、詳しい経過や今後の見込みを報告するようにとの提示もあった。 この時期は、いわゆる文久の幕政改革の転換点であった。坂下門外の変を機に、安藤信正、久世広周が中心となっていた政権は、一橋慶喜(将軍後見職)、松平慶永(政事総裁職)の政権に交替して行く。前出の水野和泉守も、この交替の時期に、新たに老中となった人物である。この政権のもとでは、前政権の重要な政策で、すでに、実施に入っていた「国益会所」による全国的流通の把握をめざす政策は廃棄される。文久の幕政改革のうちの経済上の政策(特に全国市場の幕府による独占的支配の政策)は、大きく後退し、軍政改革に重点がおかれるようになる(田中彰「幕末の政治情勢」『岩波講座 日本歴史』14近代1)。このような政治的変動のなかでは、「廟堂も御替リニ相成、御心得無レ之、当時之姿ニ而、往々御入用筋等はたと行支候様ニ而は不二相成一去迚手を縮候而は御開拓行届可レ申期も有レ之間敷」=蝦夷地経営の方針について心得のない人材で幕政がおこなわれるようになり、経費の削減が急に実施されるようになりかねない、それでは「御開拓」はすすまなくなる、とも考えられ、箱館奉行らは「御書取」=老中の指示の趣意は、「御尤」のようにもみえるが「不毛之蝦夷地ニ難レ被レ行事」=実施できない、と考えるのであった(前出「書類」)。 箱館奉行は、ここで、幕府の蝦夷地経営の「初発」からの経過が正しく理解されるようにと、最初の建白書から、その後の「追々御処置之廉々」について詳しい資料を添えた報告を行った。あわせて産物の開発などについて「御損失」も「御益」も明らかにしたうえで此の後の見込みも述べることにした(前出「書類」)。こうしてまとめられたのが「蝦夷地御開拓諸御書付諸伺書類」であった。「蝦夷地在住之者江地所割渡方之儀」=在住のものの扱いを変更し、知行地を与えて土着させることについての箱館奉行の意見書は、早くも7月17日には、水野和泉守へ提出されているので(意見書の内容は、是迄、在住のものへは通常の給与のほかに、特別な手当も支給しても「諸入用」にさしつかえている状況で、老中からの提案のようでは、家族の養育にもこと欠くようになるので、今まで在住として勤めていたものもやめてしまい、新たに志願してくるものもなくなってしまうだろう、しばらくは、今のままにして成功に努力させるようにするのがよい、というものである、−前出「書類」)、この意見書の提出時期とあまり隔らない時期に「諸御書付諸伺書類」も提出されたものと思われる。 この「諸御書付諸伺書類」の提出のあとと思われる文久2年12月12日になって老中板倉周防守勝静(やはり、和泉守と同じく、この時期に新たに老中になった人物である)は、箱館奉行に対して「箱館表御入用」について「決算」を報告するように指示している。前出の「書類」にも「御損失」や「御益」について、触れた内容の部分がある(「産物会所之事」の項では、川汲山の銅は、入用がかかりすぎるので休山にしている、クンヌイ砂金山は、まだ少ししか産出がない、硫黄はかなり利益がある、製紙や機織は、地元だけの原料では不足している、など産業開発の様子にやや詳しく触れている)が、決算書の形のものではなかったので、より細密な決算を要求したものと思われる(「筥 「筥 全体として安政2〜文久2年の間の8年間に13万両余を支出して、収納は8万両余で、損益の点では5万両余の損となっている。この表示の金額のほかに、陶器、五升芋、硫黄の関係では貸付金が9000両余あるが、「御国益」上での成果は、全くあがっていない計算である。 五升芋、金銀山、産物会所の3項で「御損」の90パーセント以上の金額をしめしている。五升芋は、外国人の需要が多いということで大いに作付をすすめていたが、早くから供給過剰となって損失を招いたもののようであるが、金額は過大にみえる。金銀山は、「三ヶ年盛山仕候へば拾ヶ年不盛にても」採算上問題はない、一度、「休山」にしてしまうと再開発には莫大な経費をまた投下することになるとして(「筥 利益が特に目立つのは、石炭で、クシロ場所シラヌカ産であり、遠隔地からの輸送費がかかり、品質もよくないとされていたが、外国船への売却で利益をあげているのである。そのほかでは硫黄が利益の大きい方であるが前出の「書類」では、硫黄100石で、「百両内外御益」になるとしており、「筥 金銀山をはじめ、陶器、藍作、砥石山、紙漉場、御用畑、薬園というような、新しい産業分野へ直営的にとりくんでいるような場合損失を出すかたちである。養蚕について、これまで年々、損失を出して、こののちも利益が見込み得るとは思われないが、「農家にては女紅第一の品」=女子の仕事として最適なものなので、何とか継続させたいとして、硫黄の利益を養蚕の方へまわして経理をおこなうようにしようと考える、というような態度で、損益によらず、新しい産業を根付かせようとする方針もとられていたので(「筥 鯨、鹿皮など、そして荏種以下の諸産物で利益が計算されているが、いずれも産物を買上げて売却するだけの扱いで計上されているもので、産業開発の性格は弱い分野である。 文久2年という政治情勢のなかでは、経済開発への投資を抑えてでも軍事面に資金をまわして行かなければならない幕府の事情が目立って来ており、そこで求められる蝦夷地経営の決算報告は、「御国益」に、資するところが大きいと見えるようにつくられなければならなかったはずである。概況の報告ばかりでなく、決算の数値まで算出すれば、やはり「御国益」の面での成果には無理があり、新しい産業開発に努めている様子をしめすという範囲になっているのである。
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