通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第5章 箱館開港
第10節 漁業

前浜漁業/鰯漁/鰊漁

いか漁/昆布採取/樺太漁業

いか漁鰊漁   P650−P651

 いか釣漁業は、外国貿易が開けたため、やや進歩したが、当時はなお小舟に乗ってわずか半里ないし1里程の沖合に出て釣るのみで、産額も多くなかった。しかし清国向けには南部・津軽産の品を混じて箱館鯣の名をもって輸出したが、南部産は箱館産よりも良品であったため、箱館鯣の名声をあげた。

昆布採取   P651

 箱館地方の昆布採取業は古くから開けていたので、もはや発達の余地はなかったが、貿易開始以来昆布の取引は全体に活気を呈したため、その影響を被ることも少なくなかった。また、東蝦夷地の昆布場所は、いずれもその産額を増し、根室場所のごときは、嘉永年間の末から始めてこれが採取に着手し、その後、次第に産額を増加させ、長切昆布の名は、以前は多く用いられなかったが、開港以来は輸出品中の主要な品目となるに至った。

樺太漁業   P651−P652


松川弁之助
 樺太漁業は当時なお微々たるものであったが、箱館とは密接な関係があった。同島が「場所」として開発されたのは、寛政2(1790)年のことで、文化年間以後、伊達林右衛門、栖原角兵衛の2人が共同してこれを請負い、その後アニワ湾および西海岸の南部で漁業が行われた。
 これが当時代になって、幕府はなおその奥地を開き、もってロシア人の侵入を防ごうとし、安政3(1856)年東海岸および西海岸ノタサン以北を直捌場所として、越後の人松川弁之助に差配を命じ、漁場を開発させた。そこで弁之助は翌4年、初めて東海岸オチョボカに漁舎を建て、姻戚の佐藤広右衛門と協力し、奉行所から金1万両を借り、本店を箱館に置き、大船10余艘を備えてこれに従事したのである。また米屋喜代作、山田文右衛門も同じく出稼ぎを出願して差配人並に命じられ、幕府は、東海岸知床岬からマクンコタンに至る数十里の間を、弁之助、広右衛門、喜代作、文右衛門の4人に分割して漁場を開発させた。更に越前大野藩(土井侯)も、西海岸クシュンナイに石狩出張番屋を設けて漁場を開発したが、しかし当時交通不便で、経費も多くかかり、かつロシア人はクシュンナイ、マーヌイの線以南に進出して人心穏やかならず、その経営は極めて惨憺たるものがあり、弁之助、広右衛門はほとんど破産して帰国、文右衛門、喜代作もその費用に堪えることができず、これを辞したので、やむを得ず同島南部の請負人林右衛門、角兵衛にその後を引受けさせた。こうした中にも安房の勝山藩(酒井侯)が、文久3年東海岸の奥地である静河(シツカ)を請い、漁場を開いた。樺太の開発は他日箱館繁栄の一要困となるものであるが、その創成期はこのような人々の苦心が積み重ねられたものである。
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