通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


「函館市史」トップ(総目次)

第5章 箱館開港
第2節 蝦夷地再直轄と箱館奉行

箱館付近の上知/堀・村垣の復命

蝦夷地の上知/松前藩の処遇/奉行の増員/奉行支配吏員

箱館及び蝦夷地の警衛/警備地の領地化

崇広の嘆願/奉行の更迭異動

崇広の嘆顧   P584−P585

 松前藩では、蝦夷地を警備していた各藩に、その警備を分割領知させるという話が起こると、従来必ず松前を経由していた蝦夷地の産物が、直接各藩に行き、経済的に苦しくなるという心配から、蝦夷地を松前藩から上知しておいて、これを各藩に分割する不当を訴えるため、東西元太郎という架空の人物をつくり、在郷の百姓に一揆を起こさせ、また藩民を江戸にのぼらせて幕府要人に直訴をさせるという猛運動を起こした。しかし一揆は鎮圧され、江戸にのぼった者は帰国させられ、藩は幕府から戒められるとともに、重役はいずれも譴(けん)責を受けた。その後、諸藩の分割支配が実現されたので、文久元(1861)年3月、崇広は書を幕府に奉り、一昨年秋蝦夷地の内を松平陸奥守ほか5家に割り渡されたことは、もとより深慮遠謀あってのことであろうが、蝦夷地は、もとわが祖先が辛苦平定した土地であって、文化年間いったん召し上げられたにかかわらず、のち文政年間に至って、旧家格別の儀をもって再び賜わった例もあるから、西蝦夷地の内、津軽藩の支配地を除き、久遠から厚田に至る15場所ならびに乙部から熊石に至る8か村を賜わらんことを嘆願し、また本藩は大藩に接し、これと肩をならべて箱館警衛に勤めているし、かつその所領は沿海の地で極めて重大な任務であるのに、小禄では家臣らの奮励も自然薄らぐおそれがあるから、年々の手当1万8000両の代わりに相当の領地を賜わり、7万石以上の格に列せられんことを請うたが、もとより入れられるところとはならなかった。しかし後、元治元(1864)年崇広が老中に就任すると、11月19日に至り乙部から熊石に至る8か村を賜わり、その代り年手当金のうち700両を減じられた。

奉行の更迭異動   P585

 この間、箱館奉行にも更迭異動があり、万延元(1860)年堀織部正に代って、勝田充万が奉行に補され伊賀守に任じ、文久元(1861)年には竹内下野守の欧洲特派により、糟谷義明を奉行に補し筑後守に任じた。また文久2年津田近江守が勘定奉行に転じ、後任として水野忠徳(筑後守)が奉行に補されたが、わずか2か月で退隠したので、同年11月小出秀実が奉行となり大和守に任じた。更に文久3年小出大和守が勘定奉行に転任したので、同年8月箱館奉行支配組頭であった新藤蔵方凉が箱館奉行並に進み、慶応2年正月杉浦勝誠(兵庫頭)が寄合から箱館奉行に転じ、同3年6月には栗本鯤(安芸守)が勘定奉行格箱館奉行兼務を命じられた。次いで同じく慶応3年9月、織田信発が勘定奉行兼箱館奉行に補され、和泉守に任じたが、翌4年(この年9月明治と改元)2月大目付に転じたので、その後任には橋本悌蔵が箱館奉行並に補され、まもなく廃官となった。以上のように箱館奉行には幕府再直轄以来13人が歴任している。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第1巻第3編目次 | 前へ | 次へ