通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第5章 箱館開港
第2節 蝦夷地再直轄と箱館奉行

箱館付近の上知/堀・村垣の復命

蝦夷地の上知/松前藩の処遇/奉行の増員/奉行支配吏員

箱館及び蝦夷地の警衛/警備地の領地化

崇広の嘆願/奉行の更迭異動

箱館及び蝦夷地の警衛   P582−P583

 蝦夷地の取締り及び警衛も箱館奉行の重要な任務であった。殊に箱館については、早くも安政元年12月竹内、堀の両奉行は、幕府に対し次の申請をしている。

箱館は、船中より一望すれば、市廛(してん)、村落見透しに相成り、其上上陸遊歩すれば、尚更虚実を了察すべきに付、警備厳重ならざるに於いては夷人共侮慢して、図らざる争端を開くに至るやも知るべからず。従来の砲台は地勢悪しきにあらざるも、備砲実用に適せず。既に夷人上陸の節は、砲を覆い隠す程の義にて、台場の詮之なく、土塁等も手薄に付、何れも模様替えをなし、其外新規取建を要すべし。即ち矢不来(やきない)台場は押付台場と対峙(じ)して湾口を扼(やく)する所なれば之を改築し、押付・山背泊の二台場(此二台場相距ること凡七町)は之を中央一箇所に改築し、矢不来並びに弁天岬と相対せしめ、弁天岬は港内第一の要害なれば、海岸暗礁の上に築出をなし、隠台場を設け、築島へ新たに扇面形の台場を取建て、又沖之口番所にも四、五挺の大砲を据付け、立待台場は、夷賊外洋へ相廻るときの備えにまで少しく修築を加うべし。警固勤番の義は南部、津軽は領内数十里の海岸にて、自国の備えも整え難きに、此上出張致させては、尚更手薄に相成るべきに付、此両家には大艦を製造致させ、風潮の順逆に拘わらず、速に急に応ずる様、海軍を調練致させ度く、往々実備相整はば、夷人共海峡通航にも懼(おそ)れを懐(いだ)くに至るべし。就いては奥羽の内海防の憂いなき大藩に命じ、箱館・亀田の中間千代ヶ岱辺へ、陣屋を取建て、警衛致させ、松前家には有川村に陣屋を取建て矢不来砲台を守らしむべし。

とあり、また当奉行所は旧松前藩の箱館役所を引継いで当てているが、別紙をもって奉行役宅を亀田の奥、鍛冶村中道に引移すべき意見を開陳している。これらの意見は、後に弁天岬台場および五稜郭築造の発端となっている。この2大工事は箱館の繁栄に大きな関係を持った。
 一方、蝦夷地全域の取締り、警備については、安政3年東蝦夷地は室蘭、様似、厚岸、国後、択捉の5か所、西蝦夷地は寿都、石狩、留萌、北蝦夷地(樺太)の4か所に、幕吏が詰合い、それぞれ持場を設けて管理させた。警備もまた奉行の指揮下に置かれたが、しかし実際に働く兵力は、前直轄時代と同じく奥羽諸藩に求められた。前時代には主に南部、津軽の2藩がこれに当たったが、このたびは安政2年4月14日仙台、南部、秋田、津軽、松前の5藩に命じ、それぞれ所管を定めて警備させた。すなわち、南部の兵は本営を箱館字水元(現元町配水地下辺一帯)に置き、箱館から幌別に至る地、ならびに夏分だけ押付、立待の両台場を守り、津軽藩は本営を亀田村千代ヶ岱に建て、乙部から神威岬に至る地域を守った。松前藩は戸切地村に陣屋を設けて、七重浜から上磯一帯の地を守った。その後、安政六6年、会津、庄内の2藩が警備に加わった。なお、仙台、会津、庄内、秋田の4藩は箱館に留守居役を置いていた。

警備地の領地化   P583−P584

 仙台藩がこの警衛を命じられると、同年7月上書して、蝦夷地の警衛は遠隔の地である上に地域が広く、永久守備の基礎をたてるのは容易でないから、警衛地をことごとく領地とし、政務をはじめすべての委任を受けることができれば、漸次に屯田の制をもって山野を開き、蝦夷を撫恤教化し、永久の方策を立てることができるであろう、ということを陳情した。けれども当時幕府は蝦夷地の措置を改正しようとしていた際なので、これは許可するところとはならなかった。
 しかるに、安政6年9月27日、幕府は仙台(松平陸奥守)南部(南部美濃守)秋田(佐竹右京大夫)会津(松平肥後守)庄内(酒井左衛門尉)津軽(津軽土佐守)の6藩に達し、「蝦夷地の開発守衛は当時専要の事に付」、蝦夷地を分割し領分として給与するから諸事熟議して、守衛、開墾等特別行届くよう取計うべし、と命じるに至った。
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