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「函館市史」トップ(総目次)
第5章 箱館開港
第2節 蝦夷地再直轄と箱館奉行
箱館付近の上知/堀・村垣の復命
蝦夷地の上知/松前藩の処遇/奉行の増員/奉行支配吏員
箱館及び蝦夷地の警衛/警備地の領地化
崇広の嘆願/奉行の更迭異動
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箱館付近の上知 P579
箱館が神奈川条約によって国際的な関係を持つと、安政元(1854)年6月26日、松前藩に命じ箱館ならびにその付近5里の地域を上知し、6月30日には箱館に箱館奉行を置き、勘定吟味役竹内清太郎保徳をこれに補し、下野守に任じた。一方当時北辺の情勢をみると、これより先嘉永6年ロシア兵の一隊が、北蝦夷地(樺太)久春古丹に上陸占拠するということがあった。そこで幕府は当然起こる国境談判を有利に実地で決めるため(前述蝦夷地見分)、目付堀利煕、勘定吟味役村垣範正を派遣したが、両者が着いた時はロシア兵がすでに退去した後なので、その実情並びに松前、蝦夷地を調査して帰った。その結果を、「松前並蝦夷地惣体見分仕候見込之趣大意申上候書付」として安政元年9月に提出した。これは蝦夷地再直轄を決定する根拠となったばかりか、上知後の幕府の蝦夷地経営の基本方針を示唆する重要な意見書となった。
堀・村垣の復命 P579−P581

竹内下野守保徳 |
その大要を挙げれば次の通りである。まず松前および蝦夷地の概況を述べ、福山(松前)城下は防禦の設備が相応に整っているが、その他の広大な地は警備すこぶる手薄である。かつ蝦夷地の景況を見ると、北方二、三分の地は陽気薄く、野菜ができるだけであり、その他七分のうち四分ぐらいは山谷湿地で、これまた耕作には適さないが、その代り良材巨木が多く、また各種の鉱物に富んでいる。以上を除けば諸穀・諸菜の耕作に適し、良田美地に変えることができる。ことに周海の漁利は莫大なものであるにかかわらず、松前藩は依然これを請負人に託し、ただ運上金・仕向(しむけ)金を徴収しているだけである。その請負人は、またそれを支配人らにまかせて省みず、支配人らは蝦夷を使役することすこぶる苛酷を極め、しかも盛んに蝦夷地に出没するようになった外国人が、もしも恵みを施して蝦夷を誘惑するようなことがあれば、彼らは喜んで帰服するであろう。一方松前藩はカが足りないから、いくら厳重に申渡しても、蝦夷地の警備・撫恤(ぶじゅつ)などは到底行届くはずがなく、それかといってこれを他の諸藩に分割処置させるのは後弊を残す憂いがある。故に当今の処置を熟考すれば、往時のように再び幕府が直轄し、旗本・御家人・並びに次、3男厄介、その他陪臣・浪人等を移し、屯田兵農の遺制にならい、新田開墾、産物取開きにカを尽したならば、その成功は必ずしも困難ではなく、その経費は周海の漁利で足り、恐らく将来の大富源となるであろう。なお再考するに、泰平200年、軟弱に流れた士風にとって、蝦夷地はこの上もない身心の鍛錬場で、士卒は風霜艱(かん)苦を経歴し、航海・射撃にも練達することができる。よって北蝦夷地・択捉・国後をはじめ島々ならびに東西蝦夷地一円、西は乙部、東は知内村まで上知するように、と陳述している。なおこの調査中、同年7月堀利煕は箱館奉行に補され、織部正に任じられた。
これに対し竹内保徳は、大体右の意見に同意するが、一時に全蝦夷地を直轄することは、手が届きかねて趣意に反する憂いがあるから、まず箱館六箇場所および東蝦夷地を上知経営してはどうかとの意見を述べている。12月利煕らは、更に蝦夷地上知後の警衛、在勤吏員および経費などに関して意見を上申した。 |