通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第5章 箱館開港
第1節 箱館開港の経緯
2 ペリーの箱館来港

松前藩への通達

市在住民への触書

アメリカ艦隊の入港

艦隊の動静

旗艦ポーハタン号の入港

アメリカ士官との応接

士官らの市中見物

松前藩の回答書

勘解由の米艦訪問

ペリー提督上陸会談

幕吏の来箱/噴火湾及び室蘭港調査

2水兵の埋葬

箱館住民との接触/アメリカ人の見た箱館

写真撮影/松前藩役人に対する批判/艦隊の抜錨/遊歩区域の確定と批准

2水兵の埋葬   P574−P576

 また、停泊中不幸にも2名の水兵が、この異境の地に死亡するという出来事もあった。すなわち、4月29日アメリカ側から「ハンテリヤ船(バンダリア号)の水主、長々病気の処、昨夜病死致し候に付、当所において葬り度く候間、いづれにても宜敷く候間、都合よろしき寺院差図に及び呉候様申聞候由。」(『亜国来使記』)の申出があった。これはバンダリア号の乗組水兵で、ジェームズ・G・ウォルフ(55歳)のことである。
 松前藩吏にとっては、全く異例のことではあるが、下田・横浜でも前例があるということなので、その要請に応じて埋葬の場所を指図した。埋葬は4月30日に行われたが、当日は「昼四ツ時(午前十時)頃、異人共棺箱乗せ候橋舟、高龍寺下浜手に漕付け同所より上陸、山背泊火葬場へ葬送致し候に付、途中夫々警固致させ、且見届のため遠藤又左衛門、藤原主馬、代島剛平、蛯子次郎差遣わし候処、程なく罷帰り別段怪敷儀もこれなく、異人共三十七人上陸にて夫々取片付、一同引取候旨申達」(『亜国来使記』)ということになった。
 この日正午ごろウイリアムズが応接所に来て、又左衛門に会い、「今朝葬り候場所え石塔取建て、且つ廻りえ木にて柵を立度く候間、取斗らい呉候様申出供に付、」(同前)、早速あり合わせの石塔1本を贈り、かつ、柵を建てることも承知したところ、1枚の書面を差出し、これを石塔に彫りつけてくれるよう依頼した。
 ところが5月2日になって、またウイリアムズが来て、昨夜またもやバンダリヤ号の水兵1人が病死したので、先日の場所に葬らせてほしいとの願いがあった。これは19歳の若さで命をおとした、G・W・レミックである。この連絡を受けた又左衛門は、「故国を遠くはるかにした、若者の死に暖かい同情を示して、提督邸の丁度上の新桟橋にあげるよう指示し」(『ペリー日本遠征日誌』)、前例に従いこの日の夕刻72人の兵士に送られて埋葬された。この2基の墓は、現在船見町の外人墓地の最も道路ぎわに海の方を向いて建てられている。
 なお、当時バンダリヤ号の水兵たちが出発にあたって、この遠い異国の浜辺の丘に眠る2人の友を弔うため記念碑を設け、彼らの作った碑文を刻むよう頼んでいった。しかしこれは当時直ちに実現されなかったが、昭和29年7月17日、ペリー来港100年記念式当日ようやくこれが実現し、2基の墓のかたわらに建設された。碑文は次の通りである。


“Sleeping on a foreign shore,
Rest, sailor, rest! thy trial o'er;
Thy shipmates leave this token here,
That some, perchance, may drop a tear,
For one that braved so long the blast,
And served his country to the last.”
   外(と)つ国の海辺に眠り
   憩へかし舟人よ憩へかし!
   汝が試練(こころみ)は果てたり
   汝が友の舟人等はこの記念(かたみ)を
   ここに残せり
   涙そそぐ人もありなん
   幾年か雨風をしのぎ
   祖国のために生命(いのち)献げし人に
               (土屋喬雄・玉城肇訳)

アメリカ水兵の葬儀 『亜墨利加一条写』より

バンダリア号水兵墓
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