通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第5章 箱館開港
第1節 箱館開港の経緯
1 各国との開港条約の締結

日米和親条約締結

ロシア使節との応接/日露国境問題

ロシア使節との応接   P550−P551

 これよりさき、嘉永6年、長崎に来港して開国を要求していたロシア使節プチャーチンは、クリミヤ戦争の勃発を聞き、英仏艦隊を避けて一旦帰国し、ニコライエフスクに越冬してこの方面の防備に当たっていたが、アメリカと日本との条約締結を知り、安政元年8月、英仏艦隊が冬の結氷期を避けて南下したのに乗じ、ニコライエフスクを出帆して同月30日箱館に来港した。プチャーチンは、箱館で薪水を求め、かつ奉行に面接して江戸に呈する封書を提出した。更にプチャーチンは、これから大坂に行くが、もし江戸で応接するならば、その旨大坂で通告されたいと述べ、9月7日大坂に向け出帆したが、大坂において下田で応接すべき旨の通告を受け、10月15日下田に到着した。
 幕府は、大目付筒井肥前守、勘定奉行川路左衛門尉および浦賀奉行伊沢美作守に命じて応接に当らせ、また、たまたま蝦夷地から帰省した村垣与三郎範正をもこれに加えた。かくして11月1日プチャーチンを福泉寺に引見、会談は同月3日から開かれたが、翌4日はからずも大津波が起こり、停泊中のロシア軍艦ディアナ号が破損するという事件が起きた。
 このようなことがあって、両国全権の正式会談が再開されたのは11月13日で、場所は下田の玉泉寺に移された。
 なお破損したディアナ号は、君沢郡戸田(へだ)村で修理することになったが、同地に回航中再び暴風雨に遭い沈没してしまった。そこで戸田村で新船を建造することになったが、当時この造船を助けたわが船匠は、これによって初めて洋式造船を習得し、その郡名をとって、この時造ったスクーネル型の船型を君沢形と称した。

日露国境問題   P551−P552


プチャーチン
 日露和親条約は、すでにアメリカやイギリス、オランダとの間に締結された後なので、これを拒む理由はなかったが、ただロシアとの間には懸案として、国境問題が横たわっていた。従って論議はこれに集中され、その交渉の過程において千島方面では、ロシア側は、択捉島は元来ロシア領であるのに、日本人が占有しているのだといってその領有を主張し、日本側は、千島全島は日本領であるのに、ロシア人がその北部を侵しているといって譲らなかった。この結果、ロシア側は、交易が許されるならば択捉島までは譲歩するということになったが、北蝦夷地(樺太)はアニワ湾を除くほかは、南の果てまでロシア領であると主張して譲らず、日本側は、あくまで北緯50度線を固持して譲らなかった。しかし、プチャーチンは不時の災厄に艦船を失い、帰国さえも危惧(ぐ)されたので強く自説を主張することができず、ついに従来のごとく国境をおかず共同管理にまかせることになった。かくして12月21日、日露和親条約9箇条の調印をみたが、国境問題については次の通り決定された。

第二条
今より後、日本国と魯西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、夫より北の方クリル諸島は魯西亜に属す、カラフト島に至りては、日本国と魯西亜国の間において、界を分たず、是迄仕来の通たるべし。

 ここにおいて、多年日露両国間の問題となっていた、千島列島における国境は確定されたのである。現在わが国が南千島領土の返還を主張しているのは、まさにこの条約に基づくものである。
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