| 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 |
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第4章 松前家復領と箱館 松前神楽/寺院/地蔵堂/高田屋の不動院/西国33所の分霊/納経と供養碑/宗門改め/社寺の管掌 |
松前神楽 P536−P537 2世蠣崎光広の代に創始されたといわれる松前神楽は、亀田の白鳥孫三郎の玄孫が松前に行って神職となり、永井家を嗣いで神楽三宗家の一になったという因縁もあるが、亀田八幡宮は2月17日、箱館八幡宮は正月15日、住吉神社は9月17日と定期的に行われた。また例年正月11には初神楽といって、市在の社家がそろって、役所、町年寄宅、主だった家で神楽をした。この神楽は神社祭式中の儀式に執り行われていること、これを行う者が神職自身であるという点に特色がある。赤熊(しゃぐま)をアイヌに見たてており、東北修験の山伏神楽の影響などが見られ、民俗芸能としての価値も高い。寺院 P537 高龍寺(曹洞宗) 天保8(1837)年総門を焼いたので、同15年本堂、庫裡、祖師堂、霊堂、鎮守堂、絵馬堂を新築している。文化4年幕府若年寄堀田正敦の宿舎となっている。『箱館夜話草』には「此寺の住持より江戸泉岳寺にうつるの寺格あり、すでに三代にいたる」と見られる。 地蔵堂 P537 前記高竜寺持の地蔵堂のほか、尻沢辺(一説に享和2年創立のもの)、山背泊(文化のころから存在した)にもあり、両所とも茶毘所のあったところで、その堂であった。特に山背泊には天保10年銘の木像大地蔵がある。高田屋の不動院 P537 高田屋嘉兵衛が信仰して、堂を再建した山ノ上新町の不動院は、もと神明社の修験が奉祀したもので、嘉兵衛は、わざわざ伊勢松阪から秀音という台密の僧を招いて別当とした。しかし闕(けつ)所のとき取払われ、本尊は松阪の来迎寺に移した。秀音は天保4年に没し墓は称名寺にある。西国三十三所の分霊 P538 称名寺には西国三十三観音を祀る堂があったが、別に天保3年、信者蛯子長兵衛の発願で、箱館山に三十三観音石像を配祀する話があり、称名寺住職の世話で同5年4月これを完成した。その時、西国三十三所の1か所ずつから土を運んで埋めたため、「移土観音」ともいう。石像は石田与兵衛という信者の協力で、阿波の花崗岩で刻像し、これを高田屋の船で運んだ。春秋のころ「山かけ」といって衆人が群をなして参詣し、尊信を集めた。納経と供養碑 P538 文政13年銘の納経碑が上湯川に現存している。六十六部納経の行者が来て納経したあとへ、地元の人々が建てたものであるが、回国納経者はほかにも来ていた。天保5年高龍寺に南部藩兵陣歿者の供養碑が建てられた。これは寛政から文政にかけて幕命によって出兵し、蝦夷地で病死した兵士を弔ったものである。宗門改め P538 宗門改めは早くから行われ、すでに元禄4年の覚にも見られる。また享和3年にも将軍から箱館奉行に黒印の下知があり、そのなかに「耶蘇宗門弥為二制禁一之間守レ之、無二油断一可レ遂二穿鑿一事」とあり、宗門改は厳重を極め、町役所の重要な仕事として、年々宗門人別調が行われた(第3章第4節参照)。社寺の管掌 P538 松前藩時代には藩に寺社奉行があったが、箱館、亀田地方では、すべて亀田奉行が取扱った。幕府直轄時代にも箱館奉行が社寺を管掌していた。 |
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