通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第4章 松前家復領と箱館
第6節 箱館近海の外国船出没

外国船再出現/外国船噴火湾に入る

箱館近海の出没/幕府の通達/築城/藩財政と秕(ひ)政

外国船再出現   P531

 松前藩復領後の箱館地方が、前述のような政治・経済の経過をたどるなかで、文化10(1813)年以来およそ10年ばかりその姿を見せなかった外国船が、文政年間に入ると早くもその船影を現わし、ときには食料や薪水を求めて上陸する者もあり、真相を知らぬ官民がこれを撃退しようとしたので、しばしば小さな衝突が繰返された。
 すなわち、復領後2年目の文政6(1823)年8月5日、1隻の外国船が幌泉に現われ上陸して水を汲んでいるという注進に、城下福山から物頭柴田浦太が一隊を率いてこれに赴くという事件があり、次いで同8年6月5日には勇払沖合にも姿を見せた。更に天保2(1831)年2月20日、1隻の外国船が厚岸場所ウラヤコタンに停泊、ときどき発砲するので、厚岸勤番谷梯小右衛門が部下や住民など60余人率いて向ったところ、24日外人は1隻の小舟で近付き、わが陣地に向って銃を放ったので彼我交戦となり、敵は更に小舟4艘をもって援護し、1般を上陸させて高地から銃火をあびせるので、ついに衆寡敵せず敗れて厚岸に退いた。敵は番屋を焼き、小右衛門の従者1人とアイヌ1人を捕えたが、3月3日に敵は擒(とりこ)の2人に書簡および食物を持たせて陸に送り返し、翌日帆をあげて東方に去ったという(『国泰寺日鑑記』)。

外国船噴火湾に入る   P531−P533

 しかもこれまでは、箱館から遠隔の地での出来事であったが、同年6月になるとこれが箱館と最も関係の深い内浦湾(噴火湾)内にも出没するに至った。これを長沢盛の『東蝦夷地海岸図台帳』には、次のように記している。

ウスの内場所、天保二年六月廿四日昼九ツ時頃、異船一艘沖合より来り、字ヲヒルネップと申す所の前浜半里程の沖に掛り居り、橋舟二艘にて薪伐りに上陸仕り候に付、同所より十町程西の方、字エマレマレフ(伊達市中)と申す所に漁家これあり、番人佐五右ヱ門、敬之助の両人昆布取仕り居候に付、佐五右ヱ門早速ヱトモ内勤番所に御注進申上候処、同日九ツ半時、牧田七郎左衛門様並びに御人数七、八十人御出張 〈以下六字不明〉 御足軽思い思い五、六匁の鉄砲打放し候処、異人共、急ぎ橋船へ乗込み元船へ逃れ候処、橋舟二艘の内一艘へ乗込み居り候異国人一人銃砲に当り候体に相見え頃、うろたい沖の方へ掻出し、右故、沓(靴)など脱ぎ捨て、それより浜辺ヘ大筒三挺相備え幕張り、双方より打合、暫く九ツ半時より七ツ半時まで打合候処、大筒の内一挺、異国船の筒元とおぼしきところへ 当り候様に相見え、それより直様、橋舟三、四艘にて沖合へ引出、南の方へ逃去り候。御陣中日暮まで御滞陣あれども、異船帆形も見得ざるに付、ヱトモヘ御帰陣あり、翌日お役人様御出なされ、異人ども脱ぎ捨て居靴並びに大筒の玉拾い取り御持参これあり候。其後十日程後に、往来の蝦夷ども異人所持の鋸一枚拾いあげ候に付、早速ヱトモ御詰合、三関勇蔵様へ差上候。依て佐五右衛門儀は、御注進の御褒美として白銀一枚下し置かれ候也

 この文書によれば、昼九ツ半時といえば午後1時ころにあたり、それから七ツ半時は午後5時ころであるから、およそ4時間ばかり砲火をまじえ、敵も相当あわてたらしく靴は脱ぎ捨て、鋸なども置いたまま退散している。
 また、『新北海道史』によれば、「七月二十六日、外国船が一隻内浦湾に現われ、折から砂原に出漁中のわが鰯漁船を捕えて薪水の在所を尋ね、のち有珠場所オヒルネップに停泊し、翌二十七日十六人が上陸して伐木を行ったが、たまたま一番隊が絵柄に陣を張っていたので、隊長牧田七郎右衛門は兵を率いて間道から進みこれに向ったところ、かれらは狼狽して船に乗り、銃火を交えること二時間、本船からの援護によってのがれ去った。この船は二十九日鷲別沖で箱館商船日吉丸と行き会い、砲を発して威嚇し去った。」とあって、月日が若干異なっているが、前記『東蝦夷地海岸図台帳』に見た船舶と同じ船であったと思われる。このように噴火湾内において、箱館商船や沿岸の漁民に恐怖を与えている。
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