通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第4章 松前家復領と箱館
第3節 高田屋の没落

高田屋の家訓

ロシア船との遭遇/旗合せの糾問/密約の発覚

金兵衛の追放処分/松前藩の動き

没収船舶及び場所処分

金兵衛の追放処分   P505−P506

 こうして天保3年8月、この事件は評定所一座の審問の結果、海上で外国船に会い、酒などを与えたことはあるが、密貿易の事実は認められなかった。しかし、ロシアとの密約のことが明らかとなり、そのことをこれまで隠していたこと、また嘉兵衛とともに捕えられて帰った徳兵衛なるものは、領主領内の外へみだりに出入することを禁じられているにもかかわらず、これを自由に召使ったことなどの罪科により、翌天保4年2月23日、金兵衛はその所有船12隻ならびに小旗を没収され、江戸10里四方追放、生国淡路郡志本村領主松平阿波守領分のほかに他出すべからざること、金兵衛養子嘉市は船稼ぎ差留め、所払いならびに兵庫・大坂の支店地に立入るべからざることを申し渡され、更に金兵衛所有家屋、倉庫、器財などは、同人親類の意志にまかせて処分すべき旨が達しられた。これがため、さしも全盛を極めた高田屋もついに没落するに至り、箱館市中なども一時は全く火の消えたようになってしまったと伝えられる。

松前藩の動き   P506

 この一連の事件の裏面には、松前藩のかげの動きもあったようである。さきに天保元年、松前藩が高田屋に1万両の御用金調達を命じ、高田屋がこれを上納すると、翌年正月更に1万両の調達を命じたことがあった。このときは高田屋も5千両より調達することができず、残りは江戸、松前、箱館の問屋から借入れ、ようやく上納した。
 ところが、旗合せ取調べの任に当り、かつ、高田屋に理解のあった村垣定行が病気となって職を辞するや、松前藩は、御用金調達の際に金兵衛が奔走したにもかかわらず、老中水野忠成に対し、内々に、「金兵衛身分悪事なるべき事を飾り立て、或は松前侯御用金の内、松前、江戸問屋共に示談に及び候事をも、金兵衛運上を取り立て候などと、種々悪名ヶ条を以って申し立て」(『松前秘説』)て、そのことを逆にとり上げ、高田屋が問屋から運上金を取り立てていると誹謗した。
 松前藩は、財政の窮迫によって、有力商人からしばしば御用金を借上げた。そして借財がかさむと、僅かな過失を理由として取つぶしてしまうというやり方は、寛政2(1970)年の飛騨屋久兵衛を始めとし、同8年に村山伝兵衛、そして高田屋金兵衛に至る常套手段であったのである。
 なお、金兵衛についての松前藩のこの申立ては、幕府の調査により、事実無根であることが確認された。

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