通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第4章 松前家復領と箱館
第3節 高田屋の没落

高田屋の家訓

ロシア船との遭遇/旗合せの糾問/密約の発覚

金兵衛の追放処分/松前藩の動き

没収船舶及び場所処分

ロシア船との遭遇   P504

 ところが、天保2(1831)年5月12日、東蝦夷地の高田屋の請負場所に米塩を送るため、大坂の伊丹屋平兵衛所有の栄徳丸という船を雇い、船頭重蔵が乗ってきたが、たまたま風がなく様似沖で漂っていたところ、2艘のロシア船に遭い、その船から異人がボートを出して栄徳丸に乗組み、若干の米酒を奪い取って去った。それから風を得て栄徳丸は幌泉に入港したというのである。

旗合せの糾問   P504−P505

 それがどういうことからか、折から厚岸のウラヤコタンの外国船乱暴事件の調査のため、蝦夷地に派遺された幕吏川窪忠兵衛の耳にはいり、船が更に根室に行った際、船頭外一同会所に呼び出され、糾問を受けた。しかし、重蔵らは異国船との関係は何もなかったと申し述べたものの、再応の取調べで、ここで真実を申し述べれば何もないが、万一乗合せの儀を隠しおくならば、やがて江戸に引かれて糾問されるであろうということなので、それを恐れ、重蔵らは前記のごとく風がなく漂っていたところロシア船に行き逢い、印の小旗を出して通過したが、異人は小船で乗込み有合せの酒を奪い取って去ったということを申し述べたのである。

密約の発覚   P505

 この小旗を示して通過するという旗合せのことから密貿易の嫌疑となり、引続き福山で糾明を受け、更に同年11月金兵衛および船頭重蔵ならびに水夫ら11名が江戸に召喚され、さきに箱館奉行であった当時の勘定奉行村垣定行の取調べを受けるに至った。そもそもこの旗合せというのは、これより19年前の文化9(1812)年、高田屋嘉兵衛がロシア人に捕えられカムチャツカに至った際、日本に幽閉されていたゴロウニンの釈放を約し、その斡旋に努力したことによって、ロシア人は大いにこれを感謝し、これに報いるため以後高田屋の船舶には、いかなることがあっても劫掠(ごうりゃく)などせず、もしも海上で遭遇した場合には、高田屋の店印である印の小旗を掲げ示す時は、ロシア船もまた赤布を掲げてこれに応答しようという密約が結ばれていた。そこで嘉兵衛は、このことをひそかに所有船ならびに雇船の各船頭に申し含め、幅2尺長さ3尺ばかりの小旗を交付したが、以来これを使用することもなく過すうち、嘉兵衛は文政10(1827)年この世を去り、それから4年後にはじめて使用されたものであった。
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