通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第3章 幕府直轄下の箱館
第9節 文化の大火と消防組設置

消防組織の確立/文化3年の大火と消防体制

消防組の設置/鼎泉

消防組織の確立   P484

 古くは火災発生の際、近隣の人々が協力して消火に当たる以外には一定の消防組織を持たず、消防人足の発生も明らかではない。火災に出動する専門的な消防組織が確立されたのは、次に述べる文化3(1806)年10月4日の大火以降のことであった。初めて人足を各町から繰り出して消火に当らせたのが文化2年で、この年の正月に町年寄から各名主へ通牒を発して消防人足の受持を定め、奉行所へ届出たが、その大要は次の通りである。

○御役所消防 大黒町 地蔵町受持
 右近傍出火の節は両町人足不残駈付消防に従事す。大黒町近傍の節は地蔵町人足は役所へ、大黒町人足は火事場へ出て消防す。地蔵町出火も亦此例に依る。
○交代屋敷、吟味役屋敷、調役其外住居向は会所町、山ノ上町受持。
○弁天町官庫は弁天町人足三十人受持。
○大町官庫は大町人足二十人受持。
○内澗町官庫は内澗町人足三十人受持。
○弁天町人足七十一人の内、三十人は火災の遠近に拘らず町内御蔵所へ詰合せ、四十一人は火事場の消防に従事す。
○タナゴマ町人足十四人は火事場の消防に従事す。

文化3年の大火と消防体制   P485

 文化3年10月4日の夜弁天町河岸の市店から出火し、折から西北の風にあおられて火勢がさかんになったため、奉行羽太正養自ら騎馬で乗出し、消防を指揮した。南部、津軽両藩の手勢もまた繰り出して消火に努めたが、火勢はますますつのり、同町の表通り両側から内澗町まで焼抜け、更に山ノ上町へも延焼し、官の建物では役所下の惣門ならびに門番所、高札場、交代屋敷、仕入物を入れておく板蔵2棟、土蔵1棟、寺院では実行寺、称名寺、浄玄寺、そのほか町家316戸を焼き、市中総戸数の約半数には至らなかったものの、重要な部分が多く問屋などもことごとく類焼を見ている。官では早速町会所に命じて大量の粥を炊かせ、罷災者に給与し、とりあえず山ノ上町の芝屋小屋をあけて仮りにここに収容し、また役所下に仮小屋を設けて、救助米として類焼者に1戸につき米1俵ずつ、収納方元締には5俵ずつ、同手代、寺院および名主などへは3俵ずつを与えた外、多量の米を貸与して応急の措置がとられている。そのほか南部地方から金1000両ほどの材木を買入れてこれを貸与するなどの対策もとったが、時あたかも寒さに向う季節であるのに、窮民らには小屋掛の手当も出来ない者が少なくなかったので、坂下倉庫の焼跡と役所前高札場のかたわらの2か所に仮小屋を建てて、そこに彼らを入れて寒さを凌がせたという。また、津軽・南部両家の手勢が、この火災では格別の働きをしたので、その趣を幕府に上申し、且つ重役を呼出して賞詞を与えた。
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