| 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 |
|
|
第3章 幕府直轄下の箱館 嘉兵衛カムチャツカへ/嘉兵衛の帰国/幕府の諭書 |
嘉兵衛カムチャツカへ P476−P477 9月29日ついにカムチャツカへ拉致された嘉兵衛は、翌文化10年春まで、ここに冬営したリコルドと同じ家、同じ部屋に起居を共にした。その間、嘉兵衛はロシアの少年オーリカについてロシア語を習い、リコルドとの意思の疎通につとめた。そしてゴロウニンが捕えられた原因は、前年フォストフの理不尽な暴挙にあることを責め、リコルドはそれに対し、それはロシア政府のあずかり知らぬものであると説明した。こうして結局、シベリア総督からフォストフの暴挙の弁明書、ならびにゴロウニン放還願書を日本政府に差し出すこととし、日本への再度の航海準備にかかった。折しも文化9年には、ロシア本国ではナポレオン1世の遠征を受けて大変な騒ぎとなり、嘉兵衛の身辺でも同行の2名の水夫が相次いで病没、嘉兵衛自身も健康を害し、前途まことに暗たんたるものがあった。 嘉兵衛の帰国 P477 文化10年春、解氷期を待ってディアナ号はカムチャツカを出帆、嘉兵衛、リコルドが国後島に着いたのは5月26日であった。そこでリコルドは、嘉兵衛配下の水夫2名のみを上陸させ、嘉兵衛を、シベリア総督の弁明書を得るためにオホーツクに連行しようとしたが、嘉兵衛はこれをしりぞけ、自ら国後島に上陸して幕吏との折衝に当たり、絶えずその経過を艦上のリコルドに連絡した。幕府の諭書 P477 さてこれより先、嘉兵衛がロシア船に捕え去られた報が江戸に達すると、老中らは審議のうえ、諭書をロシア人に与え、もし先年の暴挙略奪が全く海賊の行為であることを明らかにしたならば、補虜を放還することに決した。そして文化10年3月、この「魯西亜船え相渡候諭書」を、時の松前奉行服部備後守貞勝が携えて福山に来任し、その旨をゴロウニンに通じ、別に一書をゴロウニンの筆による訳文をつくって、国後島に送りロシア人が来たら渡すことにしていた。かくてこの諭書は早速国後に送られ嘉兵衛の手によってリコルドに渡された。リコルドらはゴロウニンらの生存の証拠を得て喜んで同意したので、ただちに福山に急報した。それによって7月11日、松前奉行所から吟味役高橋三平、柑本兵五郎が、露囚シモーノフとアレキセイを伴って国後に到着、嘉兵衛を引見して委細を尋問した後、捕虜放還の条件として、その国の長官の謝罪書を提出し、前年略奪した兵器、財物を返却すべきことを要求した。もちろん、この時も嘉兵衛が彼我の間に立って交渉の進行をはかり、結局リコルドはこれを承諾し、7月14日国後島を出帆してオホーツクに帰り、日本側の要求する公書をととのえて箱館に来航することになった。 |
| 「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第1巻第3編目次 | 前へ | 次へ | |