通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第3章 幕府直轄下の箱館
第6節 高田屋嘉兵衛の勃興

運漕業を営む/箱館回航/箱館支店開設/幕府の物資輸送/択捉航路開発

択捉場所開発/官船建造と定雇船頭となる/択捉産物の増加/箱館に本店を置く

択捉場所開発   P450

 択捉場所開発準備のため兵庫に帰った嘉兵衛は、明けて寛政12年弟金兵衛とともに辰悦丸に乗り、図合船2艘、鯨船4艘を率いて様似に来り、この地に越年中の近藤重蔵らを乗せて択捉島に向かい、ついに択捉島に17か所の漁場を開き、原住民に漁具および衣食を給し、風俗を改めさせて稼働させることに成功、択捉島が完全にわが領有に帰し、しかも蝦夷地第一の豊庫となったのは、まさに嘉兵衛の努力によるものであった。

官船建造と定雇船頭となる   P450

 幕府は蝦夷地経営のため多くの船を要した。箱館に帰った嘉兵衛は急に江戸に呼ばれて、官船5艘の建造を命じられた。彼はただちに大坂に下ってこれを造り、翌享和元(1801)年4月箱館に回漕し、主として千島方面の運航に当たったが、この年嘉兵衛は蝦夷地定雇船頭を命じられ、3人扶持を給せられるに至り、2年には手船3艘が択捉定雇船となった。以来嘉兵衛は官船ならびに官雇船まで一手に管理差配し、箱館と兵庫に根拠地を持ち、蝦夷地および本州各港に縦横に活躍した。

択捉産物の増加   P450−P451

 ことに彼の開いた択捉場所は、もとより魚族に富み、たちまち多額の産出をみせ、しかも鱒の豊富なことは全道に冠絶したので、盛んにこれを漁し、搾粕として諸国に移出した。享和3年の同島の産物を挙げれば、鱒搾粕40万貫(鱒480万尾を要する)、鱒油2500挺、その他魚搾柏2万貫、同油150挺、塩鱒12万尾、塩赤鱒8000尾、塩鮭30万尾に達し、同島の開発は東蝦夷地の声価を一層増大させた。このため松前藩のころの東蝦夷地の収納高は、これまでは西蝦夷地のおよそ3分の1に過ぎなかったが、幕府の直捌となり、前述のような発達を示し、その収納はほぼ西蝦夷地に匹敵する盛況を呈したと伝えている。
 かくて嘉兵衛は文化3(1806)年には、大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられ、同7年特に択捉場所の請負を命じられて、家業はいよいよ繁栄し、本道屈指の豪商となった。

箱館に本店を置く   P451


高田屋金兵衛苗字帯刀御免の書
 しかも文化9年幕府が直捌制度を廃止し、再び場所請負制度をとると、やがて高田屋は択捉場所の外、根室、幌泉場所を請負い、いよいよ手広く場所経営に乗出し、その産物のごときは、きびしく精撰して荷造りをなし、の商標を付けて移出したので、諸国の商人は皆これを信用して内部を検査することなく取引したという。その後、箱館大町の支店を本店に改め、倉屋敷を内澗町ならびに宝町および蓬莱町に設け、別に長屋数棟を恵比寿町に建てて番頭以下雇人の者を居住させ、かつ支店を大坂、兵庫に置いて巨富を得たばかりか、ことにこの間、第8節に後述するように、ロシア船に捕えられ、ゴロウニン釈放という国際的な外交交渉にも当たり、日露両国の関係を円満に解決してその功を賞せられるなど、まさにその名声は遠近に知られた。
 なお、嘉兵衛が御用御免を願い出て、事業一切を弟金兵衛ら兄弟に譲り、郷里都志本村に隠居したのは文政元(1818)年といい、同10年4月5日この地に59年の生涯を閉じている。
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