通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第3章 幕府直轄下の箱館
第6節 高田屋嘉兵衛の勃興

運漕業を営む/箱館回航/箱館支店開設/幕府の物資輸送/択捉航路開発

択捉場所開発/官船建造と定雇船頭となる/択捉産物の増加/箱館に本店を置く

運漕業を営む   P448

 高田屋嘉兵衛は、明和6(1769)年淡路国津名郡都志本村百姓弥吉の長男として生まれた。寛政2(1790)年摂津国兵庫港に出て船稼ぎをしていたが、同4年24歳の時船頭となり、居を兵庫西出町に構え、弟嘉蔵および金兵衛、嘉四郎とともに住み、主として長崎、下関などの回漕に当った。こうして同7年和泉屋伊兵衛の手船の船頭となって奥州酒田に航海し、手船新造を計画して帰り、西出町に「諸国物産運漕高田屋嘉兵衛」の看板をあげて独立した。

高田屋嘉兵衛

高田屋手船辰悦丸

箱館回航   P448

 寛政8年手船辰悦丸(1500石)を新造して自ら船主となり、兄弟力を合わせて乗組み、兵庫で酒、塩、木綿を積み、更に秋田辺で米を買積みして箱館港に入津したのが、嘉兵衛が箱館に来たそもそもの始めであった。かくて嘉兵衛は箱館の回船宿白鳥勝右衛門(松浦武四郎『蝦夷日誌』に白鳥新十郎とあり)方に止宿し、積荷を売捌き蝦夷産物を交易して、今後毎年西国から北国へ上下致すべきことを約して帰り、翌9年も同様に往復している。

箱館支店開設   P448

 嘉兵衛が箱館大町に支店を設け、弟金兵衛を支配人とし、根拠を置くようになったのは寛政10年で、呉服太物類、荒物などを売捌き、蝦夷地の産物を買入れ、手船5艘をもって兵庫、大坂、下関に売捌き、また諸国の物産を箱館に積下げて捌いた。

幕府の物資輸送   P448−P449

 こうして嘉兵衛は幕吏の知るところとなり、あたかも幕府は蝦夷地直轄の準備中でもあったので、蝦夷地の経営に何よりも必要なのは船舶輸送で、このため目をつけられた嘉兵衛は、この年その下調べに蝦夷地に出張していた勘定吟味役三橋成方に呼ばれ、蝦夷地の海上交通の状況について意見をただされた。嘉兵衛の答えは極めて明快で、深く三橋を感歎させた。越えて翌11年、幕府が東蝦夷地を直轄すると、奥州酒田から幕府の必需品を箱館に回漕すること2回、更に厚岸、根室、国後に至って請負人の産物を買取って回漕した。それは嘉兵衛の力量を十分に証するものであった。

択捉航路開発   P449


近藤重蔵
 彼が厚岸に滞在中、択捉島開発の任を帯びてこの地に至った近藤重蔵に呼ばれ、そして択捉航路開発の相談を受けた。嘉兵衛は欣然これを引受け、購買の荷物を水戸に輸送させ、自らは重蔵に従って国後島の東端アトイヤに向かった。
 由来、国後島と択捉島の間の潮流は速く、アイヌ船で渡海するのは全く命掛けであり、従って大船の通航などは、はなはだしい困難が予想されていた。嘉兵衛は毎日高い丘の上から潮の方向を見定め、丸木舟を流してその緩急をはかるなど様々な研究を続けたが、そこには3つの潮流があって、各別な方向に流れていることを知り、その衝点を避ければ無事船を渡す自信を得たので、宜温丸という75石積の船に堅牢な波よけをつけ、ついに択捉島へ乗切り、紗那を中心に、会所を建てるべき所や漁場などを見立てて国後に帰り、根室において近藤重蔵に復命、更に箱館、江戸においてその顛末を報告した。前記のごとく特命をもって択捉場所の開設を命じられたのもこの時であった。
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