| 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 |
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第3章 幕府直轄下の箱館 直捌制度/近江商人の排除/運上屋を会所に/箱館会所の所務/産物取扱方 |
直捌制度 P443−P444 幕府直轄下の蝦夷地経営は、多分に国防的観点を前面に押し出し、松前藩政下の幣害の多かった商人による場所請負制度を廃止し、幕府自らが直接に経営する、いわゆる直捌制度をとったのである。従って従来請負人の手によって行われてきた、蝦夷地における住民(アイヌ)の撫育・介抱はもちろん、それによって生産された産物の交易集荷、流通の面に至るまでも、全面的に幕吏の手によって統制運営された。近江商人の排除 P444 その具体的な方法として、住民の動揺を考え、場所における支配人・通詞・番人などは、おのおの希望にまかせ、これまでの通り使用することにしているが、監督を厳重にして特に監督を厳重にして松前藩と直結した近江商人団を排除し、天明期前後から成長した伊達林右衛門、栖原角兵衛、阿部屋伝兵衛、高田屋嘉兵衛などの新たな商人を積極的に登用したところに、一つの大きな特徴が見られる。すなわち、寛政11(1799)年仮直轄になると、会所を箱館ならびに江戸(当初は伊勢崎町、のち霊厳島に会所を建設)に設置するとともに、全国枢要の地に御用扱商人として、寛政11年、同12年には、箱館では栖原庄兵衛、伊達林右衛門、阿部屋伝兵衛、平岩屋平八、江戸では栖原角兵衛、栖原久次郎、田中屋伊助、京都では越後屋利右衛門、大坂では多田清左衛門、伊丹屋四郎兵衛、小山屋吉兵衛、南部大畑では菊地与左衛門、新屋元左衛門、敦賀では網屋伝兵衛、飴屋治左衛門、総州銚子では十五屋伝五郎等を、それぞれ御用聞に命じている。次いで兵庫、下関、酒田、青森、鍬ヶ崎、岩城、平潟、浦賀、下田等にも会所を置いた。 運上屋を会所に P444 こうして新たな商人を御用聞として上から把握して、流通の拠点となる要港をおさえ、同時に蝦夷地各場所では、旧来場所請負人の場所経営の中心となっていた運上屋を会所と改め、幕吏を在勤させ、これまでの運上屋の機能のほかに、公務をも執行する出張役所としての性格をもたせた。そして各地の建物は、ほとんど建て替えられ、その周囲には旅宿所をはじめ倉庫、作事小屋、番屋などが数多く増築された。箱館会所の所務 P444−P445 直捌下の箱館会所の所務取扱いは、毎年10月限り各場所の必需物資の仕入高を取りまとめ、会所掛がこれを検査し、調役一同が認印したあと吟味役に差出し、認可を得て御用聞に下げ渡された。御用聞はその注文品を注文先別に諸国に引分け、注文帳をつくって差出し、会所掛調役、同下役が取調べの上、吟味役の認可を得て注文が発しられたものである。こうして仕入れられた品物は箱館に輸送させ、これを倉庫に入れ、その後、倉出しの都度払帳に記入し、送状に値段帳を添えて、各場所に発送する方法をとった。また、場所から箱館役所に不時の追加注文がある時は、臨時買いといって市中の問屋から購入し、仕入品の貯蔵に不足品がある時は、貯仕入物といって、これも市中の問屋から購入して用意した。文化2、3年ころの例をとれば、会所の総仕入高は、およそ2万3、4000両といわれ、仕入金額の最も多いは大坂で、江戸がこれに次ぎ、箱館、敦賀、越後などがこれに続いて2000両を越えていたという。つまり大坂、江戸が供給地として重要な役割を果たしていた。産物取扱方 P445 場所の産物は、産地から江戸に直送するものもあったが、多くはいったん箱館に集荷されたうえ各地に回漕された。すなわち、場所産物を積んだ船が箱館港に到着すると、会所掛がこれを産物帳に記入し、送状は吟味役に差出し、官船・雇船にかかわらず、下役または在住の者が船改めに赴き、会所からは産物掛手代が船中に行って品物を見届けた上、入札を告知した。それによって問屋および小宿の者が、船に来て品物を見て入札したものである。開札には会所掛が出席し、御用聞と産物掛手代が立会ってこれを開き、高札者を落札者として記帳、御用聞らが評議の上会所掛の認可を得て、落札者に品物を渡した。落札額の最も多いのは箱館で、次いで江戸、その他は少なかったという。落札払下げ代金の取立は30日限りとされ、仕出帳の取調べができ次第追々取立て、役所に内納しておき、12月に至り皆済目録に引合せて残らず納めさせた。こうして箱館商人の手に渡った産物は、彼らの手を経て更に大坂や江戸などに送られたのであるが、文化6年、7年、8年の3か年における1か年の平均払下代金は、箱館が3万1102両3分余、江戸ならびに上方回しが合わせて、およそ1万2000両であった。 |
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