通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


「函館市史」トップ(総目次)

第3章 幕府直轄下の箱館
第4節 箱館の町行政

町役所・町会所/町年寄/名主/町代/組合頭

町役所の事務

町役人手当/町費/与内銭/市中の警察

町役人手当   P441

 町年寄の手当ほ享和3年1か年3人扶持に定められ、名主は文化7年の請取書によれば、1か年手当金10両米10俵であることが知られる。しかし町代の手当は不明である。このほかに、住民から盆と暮の2期に寄贈する樽代、地所売買ならびに百姓入りの際当人から寄贈する謝礼などがあり、組合頭は無給で、ただ組合中から盆と暮の樽代を受けるだけであった。

町費   P441−443

 次に町の経済をみると、道路の修理、市中の掃除のようなものは、たいてい人足を課してこれを行い、そのほか臨時の入費は時々町内に割付けて出金させたので、別に年内の経費として予算をたてて多額の徴収をすることはなかった。規定の賦課は坪割銭・祭礼銭・筆墨紙料に過ぎない。
 坪割銭は享和元年9月箱館市中への達によれば、「地面持のもの、当年より左の割合の通り出銅申付け、名主ども取集め、町方諸入用出銅致させ候儀に付、名主給分の儀も右の内より受取らせ候積りに候得ども、右は又追て沙汰及ぶべく」とあるのを見れば、坪割銭はこの時から始まったものであろう。

内澗町、弁天町、大町   一箇年地面一坪銭十文ずつ
大黒町、山ノ上町   同六文ずつ
地蔵町、澗町、仲町、神明町   同上四文ずつ

 この年徴収したのは400貫251文で、これを金に換算すると、当時1両は銭6貫800文換えであったから、すなわち、58両余に当たる。またこの坪割銭も文化元年5割を増し、同6年減じて半額としたとあるが、その割合についてはつまびらかではない。
 祭礼銭は、八幡社の祭礼がすこぶる盛んで経費も多くかかったので、宗門改下調の時、分頭25文ずつを徴収し、町役所に積立てておき、8月15日の祭費にあて、不足の分は見聞割で賦課徴収した。文化11年町役所の上書によるその費用は次の通りであった。

一 二百九貫五百三文   八幡神輿附惣社迄の入用
一 三百九十三貫二十七文   大町恵比須山入用
一 百十四貫九百四十五文   在方より取寄候人足賄代
一 百九十三貫六百九十七文   山ノ上町大黒山入用
一 二百十貫三百文   弁天町弁天丸入用
  〆千百二十一貫四百七十二文  
      内  
三百四十貫八百八十八文   祭礼積金の分
七百八十貫五百八十四文   町内割付の分

 筆墨紙料はこれも宗門改下調の時収入するもので、町役所費の一部分をなすものである。享和2年の収入額は左の通りであった。

二貫九百七十文   地蔵町
一貫九百四十四文   内澗町
一貫三百七十七文   大町
二貫三百七十六文   弁天町
一貫二百十五文   仲町
八百三十七文   神明町
六百二十一文   澗町
四貫六百十七文   山ノ上町
一貫六百六十七文   大黒町
   〆十七貫六百二十四文

与内銭   P443

 右のほかに与内銭(当時の一種の共有積金)というものがあり、寛政12年9月町役所の触書中、「与内銭、四半敷は是迄の通上納致すべく」と見られる。

市中の警察   P443

 市中の警察は、官の町方掛においてこれを担当した。当時、内澗町に御小屋というものがあって、町方掛捕亡方が常にここに在勤して市中の取締りをした。また罪人の糾問などもここで行った。享和3年2月以前は1町ごとに夜回り番2人ずつを置き、夜5つ時(午後8時)より朝6つ(午前6時)まで警邏させたが、同月から町方掛において夜番をすることになった。同年3月、これまで牢屋番2人ずつ市中から差出させていたが、これを免除し、町方掛の担当となった。
 なお、この町政はその後明治維新まで行われ、この間変更したところは極めて少なかった。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第1巻第3編目次 | 前へ | 次へ