デジタル版
通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第3章 幕府直轄下の箱館
第3節 箱館における施設経営

箱館東蝦夷地の中心となる/堀割および築島

開墾事業

箱館山の植樹/森林の保護

箱館山の植樹   P435−P436

 一方開墾に次いで、みるべきものに植樹がある。松前藩時代においては檜(ひのき)山および山師(伐木業者)の伐木に関するものの外、山林についての制度がなく、ただ住民の自由にまかせていたため、箱館付近の山々ははなはだしく荒廃していた。そこで蝦夷地掛りの有司は、享和元(1801)年伐木について取締を行うとともに、苗圃を造って植樹を奨励した。しかし旧幣に慣れた人びとは進んで植樹をする者がなく、その成績にはみるべきものがなかった。ところがここに特記すべきことは、七重に卯之助なる者があり、箱館山および七重に植樹をした事蹟である。
 箱館山に卯之助が植樹したのは文化年間で、樹種は杉および松の2種類で、箱館役所(旧渡島支庁の所)の後ろ一帯の地に約2万本の杉と、それからやや南にあたる船魂大明神(いまの船魂神社)の所に松2000本を植樹し、また七重には杉を主とし、その外数種の苗木を植えたという。この樹木はいずれも生育し、ついに欝蒼たる森林をなし本道植樹の模範となったが、その後多くは伐採され、あるいは火災などによって減少し、今では函館山の杉と七飯の森林の若干を残すばかりになった。箱館山の松は明治の初めにはまだその幾分をとどめていたが、徳川脱走の徒がことごとくこれを切って、五稜郭の入口の柵などに使用したという。
 この箱館山の植樹について、それが官業であったか民業であったか注意する人もなかったが、明治維新後になって卯之助の子孫が、文化5年卯之助が出願して植栽し、同7年8月植付済になったもので、成木の後、その半数は卯之助の所有である旨の指令を受けているとし、以来数回にわたりその立木の分配を請願した。しかしその確証とするものがないためその都度却下されていたが、その後、これを証明する証書を発見したので、ついに内務大臣を相手どり、行政裁判所に公訴した。その証書は次のものである。

箱館山御用杉苗木二万本余植付追々盛木之上木数半方は其持林に仰付けらるる者也
                                  箱館
       文化七午年八月                   御役所 印
                                      七重村百姓 卯之助え

 この書類については鑑定者の意見は一致しなかったが、裁判所はその命じた鑑定人の鑑定により、これが正当なものと認定し、明治35年6月訴訟は原告の勝利に帰した。

森林の保護   P436

 文化年間の公文書によれば、100石以上の船舶を製造する際は、箱館付近をのぞき、六箇場所において許可を受けて木材を伐採し、規定の税金のほか100石につき松・杉・椴松・刺楸(せんのき)の類の苗木100本ずつを箱館山に植付けさせ、代銭をもって納める場合には、苗木1本につき20文ずつとしたが、後には、みな代銭で納めさせるようになった。この植林についてはその後どうなったかつまびらかでない。
 箱館山の樹木に対してはこのようにすこぶる周到な保護をもってのぞみ、官においては毎年3月末から4月にわたり、山番をおいて野火を警戒したり、またほ文政中の公文書綴によれば、箱館町会所から年々左の触書を各町に発している。
前々相触れ候通り、箱館御山苗木は勿論、小柴たりとも、決して伐取申すまじく、殊に磯廻り、野懸等に罷出候者共、野火つけ申さざる様、家内召使に至る迄申付くべく、万一右体不埒之者これ有るに於いては、御召捕の上厳敷御咎仰付けられ候間、心得違いこれ無き様致すべく、此段相触れ候。以上
      文政申三月二十八日                        町会所
 卯之助の植えた苗木もこのような保護の下に生育して美林となったのである。
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