| 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 |
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第3章 幕府直轄下の箱館 幕吏の西蝦夷地視察/西蝦夷地の上知/ロシアの樺太・択捉侵寇/守備兵の増強 異国船津軽海峡に現わる/奥羽諸藩の出兵/箱館奉行を改め松前奉行を置く/箱館に対する処置
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異国船津軽海峡に現わる P430 ところが一方、同月6日箱館の商人和賀屋宇兵衛の手船が、矢尻浜(椴法華村の内)の沖合3、4里のところで怪しい船を見かけたとの報が15日に届けられた。こうして各地に種々の風説が乱れ飛び、人心恟々(きょうきょう)たるなかに、18日申の刻(午後4時ころ)、福山の南方に帆数11を持ち、およそ1万石積ばかりの外国船1隻が見えたので、松前藩は福山城を警戒し、同所在勤調役寺田忠右衛門は、津軽藩兵に命じて弁天岬の海辺および白神岬などを警護させた。この船は19日午の刻(正午ころ)箱館の南々西に現われ、次第に近付き、望遠鏡で陸をうかがう様子であったので、羽太正養は、南部・津軽の兵数百人、奉行支配向、村役人、百姓ら数百人を18か所に分かって警備につかせ、自らは100余人を率いて各陣所を巡視した。市民は早くも老人、小児らを箱館山の林間に避難させようとして市内は混乱を極めた。この船は夕刻汐首岬の沖にかかり、まもなく東に向かって帆影を没したが、この日南部領大澗沖でも外国船1隻を見たとの知らせがあったので、終夜篝火(かがりび)をたき、不眠不休の警戒を続けること3昼夜に及んだという。しかも恐怖はなお去らず、市中では具足、武具を求める者が多く、侍は具足、鉄砲、火縄を枕元において寝、風呂屋の戸棚は具足で埋められたといわれている。奥羽諸藩の出兵 P430−431 出兵の命を受けた奥羽諸藩の兵は漸次に箱館に到着したが、その数は南部藩900人(ほかに定式人数250人)、津軽藩692人(ほかに定式250人)、秋田藩591人、庄内藩319人、総勢3000人と称された。当時箱船の戸数約700余戸のところへ、これだけの人数の進駐で、その混雑察するにあまりある。秋田藩は飛報に接すると、藩主佐竹右京大夫は即刻出兵の準備を整え将士に盃を賜わり、「今回の出兵は国家の大事である。再び予に対面することを思わず一意忠勤を励め、妻子は預かるから必ず安心せよ」と、行を盛んにして激励したので将士は皆感激し、翌日ただちに出発したのでもっとも評判がよかった。箱館に到着した将兵は、皆陣笠をかぶり陣羽織を着し整然と軍容を整えていたので、ようやく住民も愁眉を開いた。かくして交代のため戸川安論も箱館に到着したので、6月15日正養と合議の上諸藩の部署をそれぞれ定め、箱館には南部兵342人、秋田兵591人、計933人をとどめ、別に見張りのため南部兵30人を砂原に駐屯させるなど、まさに物々しい態勢をとっている。箱館奉行を改め松前奉行を置く P431 かくて同年10月10日戸川安論は福山に移って政務を執った。同月24日幕府は箱館奉行を改めて松前奉行となし、小納戸頭兼勘定吟味方河尻甚五郎春之、勘定吟味役村垣定行の2人を松前奉行に任じ、戸川安論と羽太正養も改めて松前奉行に任じて政庁を松前城に移した。箱館は幕府直轄後、政治・経済の中心地となったので急速に繁栄し、政庁の所在地としては地理港湾等の上からも福山よりはるかにすぐれているにもかかわらず、これを福山に移したのは、一つには城があって警備に都合よかったことと、古くから本道の政治・経済の中心地として栄えてきたことによるものであろう。また奉行を4人にしたことはロシア船の暴挙があって、政務多端を極めたため臨時増員をしたらしい。この年11月18日正養は露寇の責めを受けて奉行を免じ、逼塞を命じられ、(翌5年4月逼塞被免)、12月先手鉄砲頭荒尾但馬守成章がこれに代わった。更に安論も5年4月職を免じ、差控えを命じられた。(5月差控被免)。 箱館に対する処置 P431 なお、奉行庁の移転により箱館に大きな打撃を与えるおそれがあったため、特に箱館には吟味役を置いて、東蝦夷地を支配させ、ただ重要な案件だけについて松前奉行の決裁を仰がせることにして、市民の動揺を防いだ。ことに東蝦夷地の直捌(じかさばき)を廃止(後述「第7節 場所請負制の再開と箱館経済」参照)した後は、同地方の主要な場所は福山の商人の請負となり、箱館が衰退するおそれがあったので、さきに特命をもって、文化7年択捉場所の開発に当らせた巨商高田屋嘉兵衛に、同13年根室場所をも兼ねさせ、更に文政2(1819)年幌泉場所を請負わせて、これによって東蝦夷地の貨物の大部分を依然箱館に集散させることにし、著しい打撃を免れるよう配慮した。 |
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