| 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 |
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第3章 幕府直轄下の箱館 幕吏の西蝦夷地視察/西蝦夷地の上知/ロシアの樺太・択捉侵寇/守備兵の増強 |
幕吏の西蝦夷地視察 P428 東蝦夷地の永久上知以来、松前藩が反省して幕府の東蝦夷地の処置にならい、蝦夷地住民の撫育や警衛につとめたならば、松前および西蝦夷地は保有することができたと思われるが、しかるに、同藩には有為な人材がなく、財政も極めて窮乏していたため、何ら積極的な手段をとることがなかった。文化2年8月、幕府は目付遠山景晋、勘定吟味役村垣左太夫定行に松前および西蝦夷地の視察を命じている。その目的は、前年かつてラックスマンに与えた信牌をもって、わが国との修好を求めて長崎に来航したロシア使節レザノフをのせたロシア船が、幕府の拒絶に憤懣を抱き、「わが国に近き島々などにも決して船掛りすべからず」と達したにもかかわらず、あえて日本海岸近くを北上し、5月宗谷ノサップ岬に上陸して松前藩吏と会い、数日滞船し、多くのアイヌや日本商人と接触して去った真相を調査するためであったと思われる。同年冬、景晋は松前に到着したが、定行は途中病気にかかり、いったん江戸に帰り、改めて翌3年松前に至り、共に西蝦夷地を宗谷まで巡検して8月江戸に帰って復命した。 西蝦夷地の上知 P428−P429 この結果、松前藩には辺境を守る実力のないことが、いよいよ明白となったので、幕府は文化4年3月22日、松前章広から松前、西蝦夷地を上知させることに決し、蝦夷地全域を直轄支配するに至った。 松前若狭守 ロシアの樺太・択捉侵寇 P429 ロシア船が樺太を襲撃した知らせを箱館奉行が受けたのは、あたかも幕府が西蝦夷地を直轄して間もない4月7日であった。すなわち、それは前年9月11日、ロシアの露米商会員フォストフが、樺太のオフイトマリに上陸して蝦夷の小児を捕え、更に我が国樺太東部経営の根拠地クシュンコタンに至り、番人富五郎ら4人を捕え、米・酒・煙草・木綿などを略奪し、運上屋や倉庫、図合船などの施設をことごとく焼払い、書札を残して18日に退帆した。その書札には新たに樺太島をロシアの領土とし、住民をロシア皇帝の保護下に置くという意味のことが記されてあった。樺太のこの事件は漁場を引上げた後であり、番人のうち3人は逃れたが、船は焼かれてしまったので、松前に通報もできず、翌4年3月松前藩士柴田角兵衛が同島に渡り、はじめてこの事実を知り、即時松前藩に報告し、それから更に箱館奉行に申告されたのである。それとほとんど同時に、今度は択捉島が襲撃された知らせが同年5月15日箱館に達した。すなわち4月23日、フォストフ、ダヴィドフの両人は、ユノナ号、アホシ号の2船を率いて、択捉島の内保(ないほ)を襲い、番人五郎次外3人を捕え、諸物をかすめて番屋を焼き、29日には紗那(しゃな)に至った。当時、紗那には調役下役戸田又太夫以下南部・津軽2藩の衛兵が駐在し、一戦を交えたが支えきれず、ときに間宮林蔵、医師久保田見達の2人が憤慨して奮戦を主張したが、又太夫これを聞かずに敗走しアリモイにて自殺した。紗那に上陸したロシア人らは米・酒、武器その他の物品を奪い、会所を焼き、5月3日帆をあげて北西に向って去った。 守備兵の増強 P429 当時越年して任に就いていた羽太正義は、この報を受け、ただちに江戸に急報するとともに、箱館を守備していた津軽兵を宗谷に急行せしめ、更に18日南部・津軽の2藩に守備兵の増派を達し、また秋田・庄内2藩にも臨時出兵を命じた。命を受けた南部津軽の藩兵は続々箱館に到着した。 |
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