通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第3章 幕府直轄下の箱館
第1節 東蝦夷地直轄の経緯

幕府の蝦夷地調査/蝦夷地取締御用掛任命

東蝦夷地上知/蝦夷地経営の方針

箱館役所/高田屋の登用

箱館役所   P423

 寛政12(1800)年春、属僚らは江戸を発して箱館に渡り、越年の吏員とともにその設営に当った。すなわち、旧亀田奉行所の番所(現市立函館病院の所)をもって役所とし、各自の住居は小屋を繕ってこれにあて、4月三橋成方が来箱し、亀田村にあった旧亀田番所を修理してここに住み、諸般の指揮を執った。またこの年、小納戸頭取格戸川藤十郎安論、小納戸大河内善十郎政良が命を受けて、蝦夷地を巡察して国後に至り、9月には村上常福が箱館に来て三橋成方と交代し、翌享和元(1801)年冬までその指揮に任じた。そして享和元年、松平忠明、石川忠房、羽太正養の蝦夷地巡視によって、具体的に蝦夷地経営の方法が確立したのである。

高田屋の登用   P423−P424


アトイヤの標柱
 なお、この間、特記されるべきことは、淡路の船頭高田屋嘉兵衛の登用である。嘉兵衛は船子より身を起こして後船主となり、広く海運に従事していたが、寛政11年蝦夷地のことに当っていた幕府勘定役高橋三平重賢に見出され、蝦夷地の御用を勤めることになったのである。翌年幕府は択捉島の経営に当ることになり、その航路の開発を嘉兵衛に命じた。当時わが商船の航路は国後島まで延びていたが、国後・択捉間は和船の往来はなく、ただアイヌが日和を待って小船で往復するだけであった。嘉兵衛はまず、国後の北端アトイヤの高所に登り、波浪の順逆を調べ、丸木舟を浮かべて潮流の緩急をはかること20日、ついに同12年7月18日、70石積の船をもって択捉島に渡ることに成功した。嘉兵衛が抜群の航海者たることが知られたのもこの時で、その功により特命をもって択捉場所の開発を命じられ、箱館の巨商となる要因となった。
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