| 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 |
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第2章 松前藩政下の箱館 生活の定着/江戸期の生業(なりわい)/生活水準/社会生活 |
生活の定着 P415 中世の庶民生活については史料が少なく詳細は不明だが、貞治の碑や永享の鰐口など、宗教関係の遺物からして、ある程度の文化水準を想定することができる。特に志海苔町出土の古銭からは、先住者であるアイヌの生活権を大きく侵害する和人の実生活が、定着しつつあったことが察知される。江戸期の生業(なりわい) P415 コシャマインなどのアイヌ騒乱によって、和人の生活には空白の一時期を生じたが、江戸期に入ると亀田地帯が栄え、農業が生まれた。奥州和賀郡から渡って代官をつとめた白鳥氏は、出稼者に極力農耕を勧めるところがあった。また、元禄4(1691)年に出された、松前藩の覚書にも、ようやく農作に関した定めが見られる。箱館は漁民が住む程度であったが、江戸中期になると本州方面から商船も多く入港し、問屋も出現した。尻沢辺から大森、湯川、下海岸方面にかけては漁業で、ことに志海苔、石崎方面は昆布で活況をみせ、箱館はその集散地として栄えた。 生活水準 P415 江戸上期における亀田を中心とする生活水準は、必ずしも高いものではなく、元禄4年の覚書にも、「支配の村々百姓、壱人も他村へ有付間敷候。惣て跡目断絶なき様申付くべく候事」とか「若当領内の百姓、親類に逢とて他国行き候はば、子細相尋ね差遣す可く候事」などとあるから、土地に定着しようとするものが少なかった。それは生活が豊かでなかったことを物語るものであろう。しかし天明のころの箱館は「此処にても諸国の商船湊に来て市をなす事、松前に等し」(『蝦夷拾遺』)といわれるようになり、かなり豊かな暮しぶりが見られる。 社会生活 P415−P416 元禄4年の覚書によれば、「公事訴訟少も依怙贔負なく裁許のこと」、「軽き科人追放の節、様子町奉行方迄申越」、「切支丹宗門改の時分、念入候様、名主五人組どもへ能々申付くべく候事」あるいは、「博奕賭の諸勝負、堅く法度申付くべく候、並盗賊悪党者これある節」などの諸条目が散見されて、当時の社会生活の一端がうかがわれる。 |
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