| 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 |
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第2章 松前藩政下の箱館 良忍上人の渡来説/日持上人の渡来説/随岸寺 箱館山の薬師信仰/下海岸方面の社寺/円空・空念の渡来/キリスト教/供養碑の建立
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遠く郷里を離れ、気候風土の異なる蝦夷地に渡り、常に不安と期待の交錯するなかで、日々の生活を続けねばならなかった人々にとって、頼れるものは、永い習俗として培われてきた神仏への信仰よりなかった。それがやがて集落が形成されると、小祠、小堂から更に進んで神社、寺院の建立となって現われている。
良忍上人の渡来説 P405 『蝦夷実地検考録』に、「神職旧記に云う。大治年中(一一二六〜一一三〇)大原の良忍上人、融通念佛を弘めん為に、此島へ渡り、杖を息めし時、観音の霊跡有りといいしことあるにより、保延元乙卯年一宇を建てたり」と、融通念佛宗の開祖良忍上人の布教の為の渡来が記されているが、これには傍証がなく、おそらく室町末期以降、全国に流布された融通念仏縁起絵巻の影響によって生まれた伝説ではないかといわれている。日持上人の渡来説 P405−P406 永仁4(1296)年、日蓮の高弟6僧の1人である日持上人が、津軽石崎を経て渡来したという説は前にも述べた。その遺跡として伝えられるのは、石崎妙応寺、函館山の鶏冠石(夜泣石、題目石ともいう)などがあるが、史実か信仰伝説か諸説があって、いずれも日持の来道を証明する証拠を欠いている。しかし『新北海道史』によれば「昭和八年、中国チヤハル省宣化城の立化寺から、元の大徳元(一二九七)年から八(一三〇四)年にかけてここに住んだ、立化祖師という高僧の遺品が発見され、それは日持のものであることがほぼ確実だと思われるから、日持の異域渡航は事実であり、とすれば日持が奥羽、蝦夷地を経たという説も根拠がないことではなく、数年間滞在したこともありうることなのである。」とあって、日持の渡来を若干肯定している。石崎妙応寺は明治12(1879)年の寺号公称で、それ以前は経石庵といったが、同寺には寛保2(1742)年の経石塚碑(松前法華寺の僧建立)より以前を知る史料がなく、鶏冠石もまた、日持の墨跡を文化13(1816)年に刻字したというもので、永仁4年の渡来とはあまりにも隔りすぎる。また、日持はここから中国大陸に渡り、彼の地に没したと伝えられるが、同寺のもう1基の経石塚碑(文化14年建立、安積信撰文)では、漢土よりここに来たとしているのにも矛盾がある。 いずれにしても、江戸中期に日持渡来説が流布され、信じられていたのは事実である。
随岸寺 P406 『新羅之記録』によれば、字須岸全盛のころ隨岸寺という寺があったことをしるしている。宗派は不明であるが一説には曹洞宗と伝え、若狭から嘉峰和尚が来て建てたといい、当時の若狭交易の関係を物語っている。2世寂峰も若狭の人である。『福山秘府』によると同寺は、長禄3(1459)年松前に移り、文明18(1486)年焼絶したとあり、コシャマインの乱で松前へ移ったらしい。『愚意三心雑言集』には「此島(中略)寺社多くありしを、長禄、永正の乱に廃絶して、十が一つ残りしなり」とあるから、ほかにも寺社があったらしいが実証する資料がない。 |
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